空腹とケーキ

 お腹が空いているなら、冷蔵庫の中にケーキがあるよ。この条件文は、論理として見るとおかしい。そう言われているのがあった。論理としておかしいというのは、条件文として見ることによるとすると、そう見なければ、論理としてそこまでおかしいものではないものだろう。

 お腹が空いているなら、冷蔵庫の中にケーキがあるよ、というのは、一つの言明だ。これを条件文と見れば、何々ならば何々だ、となるけど、そうではないものとして見られる。言明の形を変えて言い換えられるとすると、質問文のようなものとして受けとれる。お腹が空いているのなら、冷蔵庫の中にケーキがあるので、それを食べたらどうか、とできる。

 条件文ではなくて、質問(疑問文)やすすめの文として見れば、論理としてそこまでおかしいとは言えそうにない。冷蔵庫の中にケーキがあるのは確かだとしても、それとは切り離して、お腹が空いているかどうかはわからないのがある。質問やすすめの文であれば、何々は(何々ならば)何々である、という言い切る形の文とはちがうので、真か偽かのどちらかに当てはまるという形をとるものとは異なる。

 条件文として見るのであれば、お腹が空いているなら、冷蔵庫の中にケーキがあるよ、というのはおかしいのはたしかだ。なぜおかしいのかというと、お腹が空いているかどうかは不確かだけど、冷蔵庫の中にケーキがあるのはおそらく確かだからだ。ある条件のもとにおいて、冷蔵庫の中にケーキがあるかどうかということではない。

 条件文として見るとおかしい。だから論理としてはおかしいというのではなくて、条件文ではないということをさし示しているととらえられる。条件文ではないものとして見れば、論理としておかしいとはしなくてもすむ。

 日本語では、じかに言うのではなくて、言外に文脈(コンテクスト)として含みをもたせる言い方がとられるから、そういうものとして見れば、論理にそぐわない非論理のものだとは必ずしもならないものだと受けとれる。

 参照文献 『使える! 「国語」の考え方』橋本陽介