思想や歴史は大事ではないというのではないが(大事ではあるが)、それらを大事にしすぎるあまり、社会関係(パブリック・リレーションズ)がないがしろになるのなら本末転倒だ

 自虐思想が日本ではとられてきた。自虐の史観の歴史がとられてきた。日本は戦後に連合国軍総司令部(GHQ)に洗脳されてきている。それらを改めないとならない。反日売国をのさばらせてはまずい。なるべく無くして行くことがいる。

 これまでに、日本人は自虐思想によってまちがったあり方がとられてきた。洗脳されてきた。それを改めることがいる。まちがったよくない歴史ではなくて、日本はよい国だというよい歴史をとるようにして行く。洗脳されるのではないものだ。

 こういった、自虐の思想とか自虐の歴史をどうするかということよりも、もっと大事なのは、社会関係(パブリック・リレーションズ)なのではないだろうか。社会関係では、どういう倫理観を持つかや、(閉じたものではなく)開かれたあり方になっているかがある。社会関係がとれていないようでは、よい思想やよい歴史もへったくれもない。ちょっと言いすぎかもしれないがそう言うことができる。

 よい思想やよい歴史と言ってもそれは人それぞれのものだ。よい思想やよい歴史というさいの良さというのは実質によるとして、その実質というのは、形式と相関するのがある。形式というのは社会関係がとられていると、よくなりやすい。社会関係がとられていて、形式がそれなりによいのなら、実質はそれと相関するところがあるので、そこまで悪いものにはなりづらい。

 日本をよしとするような思想や歴史を、よい思想とかよい歴史とするとしても、それは実質の話であって、社会関係などの形式を満たしているとは言い切れない。どういう倫理観をもっているかや、開かれたあり方をしているのかの社会関係がとれていないのなら、形式を満たしていないので、実質としてよいとは言い切れなくなる。

 形式に当たるものである社会関係というのを抜きにして、自虐ではない、日本をよしとする思想や歴史をとるのは、実質としてよいものだという確からしさが高いとは見なしづらい。思想や歴史よりも、社会関係のほうが大事だというのが一つにはある。自虐の思想や歴史をどうにかするよりもまず、社会関係をきちんととるようにしたほうが、日本は国としてよくなるのではないだろうか。

 参照文献 (社会関係について)『「説明責任」とは何か』井之上喬 (形式と実質の関わりについて)『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸