どちらが正しいかやまちがいかは置いておくとして、ゲーム理論で見られるとすると、日本と韓国がなぐり合う(押し合う)ことになれば、日本に勝ち目があるとは必ずしも言い切れなくなる(正しいかどうかというのはわからないところがあるし、相手も勝とうとするのだから、日本が完ぺきに勝てる保証があるとは言えそうにない)

 政治の争点にするのは賢明ではない。日本の政府は、過去にたいしてもっと謙虚になるべきだ。韓国の大統領はそう言っている。

 最近になっておきたこととして、日本と韓国のあいだで、日本の自衛隊が韓国の海軍からレーダー照射を受けたとされることがある。これについても、韓国の大統領が言うように、日本のいまの与党をになう政治家がいたずらに政治の争点にしてしまっているのがうかがえる。

 日本と韓国という二つの国のあいだで、もめごとがおきていて、うまく行っていない。これをどうするかにおいて、個別に一つひとつを見て行くべきである。本来はそうだけど、個別ではなくて、ここではかりにひとまとめにできるとすると、一つには、日本が正しくて韓国がまちがっているというのがある。そうであるとしても、何をもってして成功と言えるのかについて、ゲーム理論を持ち出して見られる。

 いちばんうまい手は、日本が引いて、韓国も引くものだ。お互いにことを荒立てないで、穏便にものごとを解決して行く。これができるとすれば、お互いの国の政治家どうしが政治の能力を十分に用いることによってなすことができるものだ。

 日本が引くのではなく押すとして、韓国が引くのであれば、日本は韓国に勝ることができる。日本が正しくて、それを韓国が認める形になるとすれば、日本が勝って、韓国が負けるような形になる。

 日本が押すのだとすると、韓国も黙ってはいないとなって、韓国もまた押す。お互いに押すことになる。これはあらかじめ十分に想定できることであって、お互いに押し合うことは避けるべきではないだろうか。

 日本がかりに引いたとすると、そこに韓国がつけこんできて、韓国が押す。そうなると、韓国が勝って、日本が負けることになりかねない。しかし、必ずしもそうなるとは言えず、日本が引いたとすれば韓国も同じように引く見こみはある。そうなるように(相手も引いてくれるように)できるだけ持って行くのが、日本の政治家がなすべきことで、日本の益につなげられる。

 日本が押して、韓国もまた押すということになると、それによって日本の益になることは必ずしも見こみづらい。いったい日本はどこに着地させようとしているのかという話になる。

 日本が押して、韓国も押すことで、着地するところとしては、日本が負けて、韓国が勝つということもないではない。国際的なことに持ち込まれたら、欧米などの他の国々が日本の肩を持ってくれるという保証はない。国際的なことになって、日本が必ず有利になるという保証は持てず、不利になるということもある。どう転ぶかははっきりとはわからないものではあるが。

 韓国の大統領は、日本にたいして、日本の過去のことを含めて、謙虚になるべきだという。それはとりわけいまの日本の与党をになう政治家にとっては耳が痛いことだろう。謙虚とは反対のごう慢になっているから、受け入れがたいことだろう。日本が引くのではなく押したほうが、日本の大衆への受けはよい。

 上から目線で、日本の大衆という言い方をしてしまっているが、日本が押すということは、引くことよりも、勇ましいので、大衆への受けがよくなるのはある。しかしそこには危険性がつきまとう。その危険性があるのが心配だ。

 勇ましさと言っても、たんにうわべのものにすぎず、真の勇気というのは、引くことにあるのだと言いたい。もし本当に日本が正しくて韓国がまちがっているのであれば、押すというのも場合によってはとってよいかもしれないが、それでも隣国である韓国を打ち負かす(打ち負かそうとする)というのはあまりよいこととは言えそうにない。

 鏡に映したように、日本が押せば韓国も押すし、日本が引けば韓国も引く、ということがあるとすると、日本の出かたしだいということもあるだろう。日本が押すことによって、韓国が(日本と同じように)押すことをうながしてしまっているのだとすれば、自分で自分の首をしめてしまう。

 一つの見かたにすぎないものであって、まちがいなく正しいとは言えないかもしれないが、日本の国が損をしないように立ちふるまうために、日本の国が過去のことを含めて謙虚になるということも一つのやり方だ。謙虚になったら日本の国が損をすることが確実になるのではないから、試しにそうしてみる(引いてみる)のは損になることだとは言えそうにない。