正と善のどちらもが駄目になっていて、おかしくなっている(効率がとられていて、虚偽意識となっている)

 自由主義共同体主義がある。自由主義では、善よりも正(正義)を重んじるとされる。それぞれの人によってさまざまな善の構想がとられるのをよしとする。共同体主義はこれに批判を投げかける。共同体の善はとても重要なものであって、ないがしろにはできづらい。

 自由主義における正(正義)とは、自由民主党の総裁選において候補者の石破茂氏がかかげていた、正直、公正、といったものが当てはまるものだ。どこか特定のものをえこひいきしない。みんながなるべく平等に自由になるようにする。経済では、格差がなるべく広がりすぎないようにする。

 いまの日本では、いまの首相による政権によって、正も善もどちらもおかしくなってしまっているのではないだろうか。善よりも正とか、正(だけ)ではなく善をとるとか、そういったことではなくて、どちらも駄目になってしまっているのだ。

 善は置いておくとして、正(正義)ということでは、自由主義における正ということとはちょっとちがうが、土台となる正というのがある。いまの首相による政権は、国会において、ご飯論法や信号無視話法を多く用いている。省庁では、役人が公文書を改ざんしたり(させられたり)、データをねじ曲げたりしている。

 土台となる正がおかしくなっているので、当然のことながら、善もとることができていない。まずは、土台となる正をしっかりやるようにするのはどうだろうか。そこがぐらぐらしていておかしいと、やることなすことがおかしくならざるをえない。

 自民党の総裁選では、候補者の石破茂氏が、正直、公正と言っていたが、これは建て前のものではあるにせよ、いまはその建て前すらなくなっていて、本音がむき出しでとられている。本音がむき出しでとられることで、方向性を見失っているようなところがある。

 本音がむき出しになることによって、友(味方)と敵の友敵論がとられ、友(味方)どうしでの独話はあるが、友と敵との開かれたやり取りに乏しい。友のやることは正しいということになって、敵はまちがいだと見なす。そう見なすと、本当の正しさがないがしろになりやすい。友どうしの独話による善というのは、正がないがしろになっていては駄目だし、共同体の全体の公共による善(共生)とはちがうものだ。