宝島社の広告で言われていることは、いまの与党の政権にとっては、ことわざで言う、豚に真珠や、馬の耳に念仏や、(開き直っているために)のれんに腕押しといったところだろうか

 戦争のきっかけとなったとされることの中には、真偽がいまだに定かにはなっていないものがある。嘘がきっかけとなって戦争がはじまったことがある。

 いまの世界では、政治の指導者が嘘をつくことが多く行なわれている。ほかのことよりも、より気をつけるべきは、指導者などがつく嘘だ。この嘘を何とかしないとならない。宝島社の広告ではそう訴えている。

 政治の指導者たちがなぜ嘘をつくのか。一つには、大衆と指導者の図式がとりづらくなっているのがある。大衆が下で指導者が上というのが成り立ちづらい。平面化している。大衆はいるが、まっとうな指導者は選ばれづらい。選ばれても引きずり降ろされやすい。

 歴史における戦争や侵略がおきたきっかけとして、真偽が定かではないものや嘘があった。宝島社の広告ではそう言っている。これが何をさし示しているのかというと、情報の危なさということだ。情報には危険性がある。

 文学者の丸谷才一氏の『裏声で歌へ君が代』においては、こう言われているのがある。「情報といふのはもともと危険なもので、要するにデマと紙一重ですからね。天才と気ちがひの関係みたいなもので」。

 宝島社の広告では、政治などの指導者のつく嘘に気をつけろという。それをやっつけろという。今年においてそれをやることがいる。これには個人としてはうなずくことができる。

 政治の指導者が嘘をついているとしても、一部の大手の報道機関における報道のあり方もまたまずい。そうした声があるかもしれない。指導者の嘘や、報道の嘘というさいに、嘘とは何かというのはなかなか難しい。指導者が言うことや、報道で報じることは、事実そのものというのではなく、加工がされているものだ。事実を情報として伝えるさいに、加工されることになる。送り手の意図が入りこむ。

 嘘とともに気をつけておきたいのは、詭弁である。嘘や詭弁には色々とあるが、そのうちの一つに、言葉の黒魔術があるという。これはあることを恣意で名づけるものだ。例えばよく言われるものである、反日売国というのは、恣意の名づけとなっているので、言葉の黒魔術に当たるものだ。

 嘘はいけない。詭弁はいけない。そうすっぱりと割り切ってしまえるのならよいが、そうできづらいのがあるのでなかなか難しい。嘘や詭弁は脱構築(ずらすこと)ができるものでもある。嘘や詭弁をまったく用いないというのなら、それそのものが嘘や詭弁だ。

 嘘や詭弁が脱構築(ずらすこと)ができるのとともに、事実もまた脱構築できる。事実と非事実というのはお互いに関係し合っているので、そのあいだにある分類線は揺らいでいる。きっちりとは線が引かれていないものが少なくない。事実を重んじるのはよいが、非事実もまた(ものによっては)重んじるようにすることがあるとよい。

 非事実というのは、まだおこってはいないものだけど、おこることがあるものがある。いまの日本の政治では、非事実の仮定がとられていないことが多くある。いまは非事実であっても、これから先に事実になるかもしれないことを、あまりとり上げていないのだ。

 非事実の仮定がとり上げられないことによって、いまの与党による政権は、ものごとを強引におし進めてしまっている。事実と非事実の分類線が揺らいでいることを、見ていないのだ。非事実をないがしろにすることによって、事実もまたないがしろにしてしまっている。

 国会において与党はご飯論法や信号無視話法を多く用いている。ものごとを進めるさいに、そのもととなるデータがひどくずさんなことがある。これは、いまの与党の政権が、非事実とともに事実もないがしろにしていることをあらわす。

 事実と非事実とのあいだの分類線が揺らいでいるのは、それぞれの人が立っている立ち場がちがうことによるのがある。それぞれの人がもつ思わくや遠近法がちがう。事実とはいっても、それを直接にとらえているとは言いがたい。何らかの形で虚偽意識(イデオロギー)が関わることになる。それは、政治の指導者であっても、大手の報道機関であっても、同じことだろう。そう言ってしまうと(どっちもどっちだということで)詭弁になってしまうところはあるが。

 何が事実かや、何が本当かを見るさいには、ある発言にたいして、対抗(反対)となる発言がとれることが必要だ。ある発言があるだけであれば、確証(肯定)にはなるが、反証(否定)が欠けている。確証の認知の歪みにおちいるのを避けるようにして、反証(否定)の批判を投げかけることに開かれているようにしたい。

 事実と非事実というのは絶対のものではなく相対のものだというのがある。非事実であっても、これから先に事実になるかもしれないことがあるし、価値のある非事実はある。いまの与党による政権は、価値のある非事実を積極にとろうとしていないが、これはまずいことだ。

 事実というのを、である(is)だとすると、そこから、であるべきだ(ought)の価値を導けるのではなく、それらは別々のものだとできる。事実を重んじるとしても、そこからじかに価値を導くことはできづらい。価値は価値として見て行くことがいる。これから先におきかねないことであれば、たとえいまは非事実であっても、事実になることがあるのだから、それをできるだけとり上げて見るようにもしたい。

 時間性というのをくみ入れると、事実と非事実は必ずしも確かなものとは言いがたい。いまは非事実であっても、時間が経つことによって事実になることがある。事実であったとされることが、非事実だったとなることもある。生成変化がおきることがある。

 事実というのを既知とすると、非事実は未知だ。すべてを分かっているとするのではなくて、分かっていないところを見るようにしたい。分かっていないところを残すようにして、すべてを既知とはしてしまわないようにする。計算ができるものばかりではなくて、計算が成り立たないことも少なくない。定性の質感(クオリア)などについてはそう言える。