国の医療や福祉にお金がかかりすぎるのを何とかするのは、国が借金や国債をいくら重ねても大丈夫なのかそうでないのかによるのがある(国の財政である、国の借金や国債に危機があるかどうかである)

 国の医療や福祉にお金がかかりすぎている。とくに後期高齢者の延命治療にお金が多くかかっているのだという。国の財政の負担を和らげるためには、医療や福祉にお金がかかりすぎるのを改めないとならない。削れるところは削って行くようにすることがいる。これははたして正しいのだろうか。

 論点がずれてしまうのはあるが、国の医療や福祉にお金がかかるのは、医療や福祉の話というよりも、国の財政の話になってくる。財政の話では、意見がまっぷたつに割れているように素人には見うけられる。国はいくら借金をしても大丈夫だというのと、国が借金をするのは危ないというのとだ。

 国がいくら借金をしても大丈夫なのであれば、いくらでも借金をして、医療や福祉にお金をたくさんかけて、充実させて行けばよい。お金をたくさんかけられれば、国民の医療や福祉の質が高まることがのぞめる。

 国が借金をするのが危ないのであれば、それを何とかするのよりもまず、その危ないことを十分に認識するべきだ。その認識が十分ではないままに、国の財政の負担を和らげようとして、医療や福祉にかけるお金を削ろうとするのは、独断と偏見におちいることになりかねない。前提となる条件がそこまで確かではない。

 国が借金をするのがまずいことなのであれば、まずそれを十分に認識するようにしたい。まちがいなくそうだというのではないだろうが、一つの見立てとしては、国の財政というのは沈黙の臓器である肝臓になぞらえられるそうだ。肝臓というのはよほどひどくならないかぎりはとくに症状は出ないという。それと同じで、国の財政もそうとうに負担をかけていても何かうったえてくるものではないとしたら、それはどれだけ負担をかけても大丈夫だということを意味しない。

 国はいくら借金をしてもまったくまずいことはなく、何かひどく悪いことがおきることはない、というのならとくに心配することはない。しかし、そう言われていることがまちがいなく正しいという確かな証拠があるとは言えないのがある。

 国の財政において、国の借金や国債がいくら蓄積されて行っても何もまずいことがないのであれば、国の医療や福祉にかけるお金について足りなくなることにはなりづらい。それは楽観論だが、それとはちがう悲観論で言うと、国の借金や国債の蓄積は、いますぐにとんでもないことになるのではないが、執行猶予(モラトリアム)となっていることがある。将来のある時点において危機があるということだ。その負のことがらの執行がいつおきるかは確かではない。

 国において、医療や福祉にお金がかかりすぎているというのは、それそのものがまずいというよりも、その論点とはずれてしまうが、ちがう論点によるのがある。国の借金や国債が蓄積して行くことが、まったく何のまずいこともないのか、それともまずいことであるのかの、意見がまっぷたつに割れていて、大きな食いちがいがおきていることに、やっかいさのもとがあるのだと素人には見うけられる。

 まっぷたつに割れているそれぞれで、条件がちがうので、ちがう条件からはちがう意見が導ける。条件のちがいによって正しさも変わる。何を正しいとするのかは、たんにこうすればよいというのだけではなくて、何を条件としているのかを確かめたり、これまでどうだったのかを見たり、目的や出発点を見たりするのがあったらよい。