学校で何を教えるべきかということでは、知識とは別に、(科学の)思考法を重んじるのはどうだろうか

 物理の元素記号や、三角関数のサインとコサインとタンジェントはどこで使うことがあるのか。使ったためしがない。学校で教えることは必ずしもいらないのではないか。あまり日常で使うことはないので、ほかのもっと優先順位の高いことをみなに教えたほうがよい。こうしたことが言われていた。

 言われていることについては、個人としてはうなずけるのがある。しかし、反論が投げかけられているのがあるのは無視できづらい。三角関数については、それが役に立つものなのだから学校で教えたほうがよいとか、近代の社会としては教えるのが当然だとかと言われている。有用なものとして使われているのがあるし、それを使う仕事が中にはあるから、仕事の選択肢の幅をせまくしないためには教えることがいるという。

 三角関数を学校でみなに教えるべきかどうかというのは、必須か任意かというのがあるだろう。特殊ではなく普遍の知識につながったり、文化の伝統だったりするのなら、必須のものにするのは適していることがある。それ以外の理由もあるかもしれない。普遍とは言えず、特殊な知識にとどまるのなら任意のものにしておくのが適していることがある。

 三角関数を学校でみなに教えなかったとしても、それをもってして原始時代に戻るのではないし、前近代の社会に戻るのではないから、そこの心配はとくにあるとは見なしづらい。

 三角関数などの知識は、科学(数学)の知識に当たるものだ。科学の知識を身につけるのもよいが、それより重要なのは科学の思考法だ。なので、知識よりも思考法を学べるようにするのはどうだろうか。科学の思考法とは、簡単にいうと疑うことなのだという。これはとくに理科系か文科系かによらず、どちらにおいてもいるものである。白か黒かにすぐに決めつけない。溜(た)めをもつようにする。

 英語では、This is a pen.という文を習うけど、これをじっさいに使う機会はほとんどないのだから、習う意味がないということも言われていた。たしかに、日常の中で、これはペンだということをわざわざ言う機会はあるとは言えそうにない。しかし、文型としては第二文型に当たるものを習うのだから、応用がきくのだし、習う意味がないとまでは言えそうにない。

 参照文献 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香