人間は社会的動物なのだから、純粋に個体による表現というのはありえづらい(相互テクスト性がある)

 共同体や政治や法律や道徳や倫理やかけ声(スローガン)や運動がある。それらからもっとも遠いものが表現だ。表現は個体であることによる。表現の敵となるのは、安手の人道主義者や、自己嫌悪や葛藤をしたことがない偽ものの左翼や民主主義者だ。ツイッターでは表現についてこうツイートがされていた。

 このツイートで言われているように、もし表現というものが、共同体や政治や法律や道徳や倫理やかけ声や運動からもっとも遠いものであるのなら、表現の範囲がせばまってしまう。表現というのは、共同体や政治や法律や道徳や倫理やかけ声や運動をふくみ持つ。それらを含めたものであって、範囲の広いものだろう。

 表現の敵というのは、表現の自由を許さないものである。表現の味方というのは、表現の自由を尊重することだ。自由主義においては、他者に危害を加えるものでないかぎりは、表現を行なう自由をみなが持つ。憎悪表現(ヘイトスピーチ)や差別は、他者に危害をおよぼしかねないものなので、やめるようにしたい。

 権力チェック(権力への批判)は公共の利益に関わるものなので、たんなる的はずれなあげ足とりを除いてできるかぎり許されるほうが人々の利益になることが見こめる。テレビ番組のとくに N◯K では、権力チェックがほとんど行なわれていないのがひどく心配だ。とりわけ N◯K はまちがった権威主義におちいってしまっている。方向性をまちがえていると言わざるをえない。

 世の中に質のよい表現がそれなりに多く流通するのは、表現の自由がとられていることと相関する。すべての人に表現の自由が与えられていることによって、色々な表現が世の中に流通することになって、人々がそれに接することができるようになる。自由主義による、思想や表現の自由市場があることは大切だ。ある表現や言論についての対抗となる表現や言論がとれるような開かれたあり方であるのが基本としてはのぞましい。

 表現は純粋に個体によるものなのか。そうとはいえないものだ。まず言葉というものが共同体に関わるものだ。関係が先にあって、そのあとに関係の網の目における一つの非実体の点として個体がある。個体よりも関係のほうが先立つ。

 表現というものに関して、表現はこうあるべきものだとなるので、法律や道徳や倫理が関わらないものだとは言えそうにない。最低限の法律などの決まりを守る限りで表現することの自由があるのであって、その決まりを守らないのなら、義務に反していることになるので、表現の権利が制限されることがある。

 表現ということに独特の意味あいをこめるのなら、表現に価値があると言えるだろうが、現実においては、表現という範ちゅうの中に、さまざまな価値のあるものがあると言ったほうがふさわしい。よい価値のものもあるし、そうでないものもある。どんな表現であっても、人間のやることなのだから、可びゅう性をまぬがれるものとは言えそうにない。可びゅう性をまぬがれないのだから、表現にたいする批判を投げかける表現がおきることになるし、できることなら、批判が投げかけられることにたいして開かれているのがのぞましい。

 表現されたもの(作品)と表現した人(表現者)とは、まちがいなく結びついているとは必ずしも見なせないものだ。表現されたものである作品が、表現した人である表現者の意図した通りのものだとは言えそうにない。表現された作品にたいして送り手(作者)はその外にいるという見かたが成り立つ。表現されたものがどうかを見て行くさいには、表現した送り手(作者)がそれをもっともよくわかっているとは言い切れず、そこは意図や内容をさまざまに見て行くことができる。

 表現されたテクストには、さまざまな要素が入りこんでいる。送り手である作者の意図したものだけではなく、意図しなかったものも入りこむ。社会や時代の影響がある。色々なものが織りこまれている。それらを見て行くさいに、受けとる人の自由があるということが、文学のテクスト理論では言われているという。