多くの量が売れている本が、必ずしも中身が優れているとは言えそうにない

 多くの売り上げをなしている。愛国の色あいが大きいとされる、新しく出た歴史の本は、かなりの本の売れ行きとなっているようだ。五十五万部に達しているとされる。それで、副読本も出されているという。

 多くの量(数)を売り上げれば売り上げるほど、その本の中身はよいものだということはできるのだろうか。それには首をかしげざるをえない。多くの量が売れているからといって、その本の中身が優れていることを意味するのだとは必ずしも言えないものだろう。

 評論家の植草甚一氏はこう言っている(『ぼくの読書法』)。本を買うときには、ベストセラーは避ける。知名度の高い著者なら、宣伝に力を入れているだろうし、報道機関もこぞってとり上げるので、売れて当たり前である。こういうものの中にはすすめられるものはあまりない。

 多くの量が売れている本が、すべて駄目だというのではなく、中にはよいものもあるだろうけど、どれだけの量が売れているのかと、本の中身のよさとは、さして相関があるとは言えそうにない。逆の指標になるというところがないではない。やっかみが入ってしまっている見かたではあるかもしれないが。どういった本を買ったり読んだりするのであっても、それは人それぞれの自由であることはまちがいない。

 作家の野坂昭如氏は、本の世界の厳しさを言っていた。本というのは、それを書いた著者が生きているうちは何とか持ちこたえられるが、著者が死んでからは悲惨だ。ほとんどの本が日の目を見づらく、日陰に埋没しがちになる。埋没した累積(死屍累々)の山となっている。これを逆に言えば、いま日の目を見ているものの中にではなく、むしろ埋没しているものの中によいものがあることが少なくないのではないか。改めて地層から救い出すとか、掘り起こすといったものだ。