国の政治の議論としてとり上げるさいに、必ずしも肯定の意味をもっているものではないかもしれないが、危機管理の点でいうと、政権のごまかしや逃げ切るやり方は、正直や公正とは対極と言ってよいし、まちがっていて失敗していると見られる

 国会では、野党が与党のおかしさを攻める。与党のいまの首相による政権は、首相と関わりのある学校や学園を優遇した。学校が土地を取得するさいに、八億円が不正に値引きされたと見られている。それをごまかすために、政権は公文書の改ざんまで引きおこした。

 政権はこうしたことをしているが、議論としての優先順位はそこまで高くはない。政権によるおかしなことよりも、もっと議論でとり上げるべきことがあるというのだ。世界では先行きが見えづらくなっているのがある。国内では少子高齢化がさし迫ったことになっている。教育の向上をさせないとならないのもある。

 政権がしでかしたおかしなことよりも、もっととり上げるべきことがほかにあるということが、論者によって言われているが、それは人によってはそういう見かたはできるかもしれない。しかし、何をとり上げるかということではなくて、そもそも議論そのものが成り立たなくなってしまっているのは見すごせない。政権は、ご飯論法や信号無視話法を多用しているが、それでどうやって中身のある議論を行なうことができるというのだろうか。

 政権がご飯論法や信号無視話法をするのであれば、何をとり上げたところでさしたるちがいがあるとは言えそうにない。どんなことをとり上げたのだとしても、ご飯論法や信号無視話法を用いてよいとは言えないものだろう。それらを平気で用いているのだから、政権の言っていることをまともに受けとるのはきわめて難しい。

 ご飯論法や信号無視話法を用いるのは、決してないがしろにできるような軽いことだとは言えそうにない。政治の権力が二重言語を用いるのは、独裁につながるものだ。黒を白と言うような矛盾した言葉を言ったり、言葉の恣意の言い換えを言ったりするのは、きわめて危険な兆候だ。気をつけるようにしてしすぎることはないものであって、麻痺してしまうのはできるだけ防ぎたい。

 政治のことがらで、何を議論においてとり上げるのがふさわしいかは、人によってちがってくるのはある。とり上げるのにふさわしいことをとり上げるようにすることは大いにけっこうなことである。話はそれとはやや異なるが、いまの首相による政権は、現実とのずれが大きくなって、虚偽意識(イデオロギー)と化してしまっているのではないか。

 国民がのぞんでいることと、政権がやっていることとが、ずれてしまっているような気がしてならない。政権がものごとを行なうさいの意思決定の過程が適正なものだとは言いがたい。政権をになう首相が、国外(世界)や国内をどう見なしているのかの、現状認識がずさんだったりお粗末だったりしているように受けとれる。もしこうしたことでないのならよいが、こうしたことになっているのだとしたら、先行きは明るいとは言えそうにない。

 参照文献 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和