純種(ピュア)の歴史と雑種(ハイブリッド)の歴史

 歴史の見かたを大きく二つに分けると、純種と雑種がある。素人によるのにすぎないものではあるが、このうちで、純種の歴史というのは正しいものになりづらいのではないか。雑種の歴史のほうがまちがいになりづらい。

 純種の日本人の歴史というのは成り立ちづらい。そうではなく、雑種の歴史として、純種の日本人をとらないようにしたほうが、現実のあり方に近づく。純種のよき日本人みたいなことで歴史をあらわしてしまうと、実態のあり方からかけ離れてしまいかねず、まちがった虚偽意識(イデオロギー)による像を仕立て上げることにつながる。

 純種の歴史はかくあるべきの当為(ゾルレン)や大義によるものだ。かくあるべきの当為や大義によるのは、純粋な動機をとるものだが、それによってつっ走るのはまちがいになりかねない。戦前や戦時中の日本は、それによる神話によって滅びに向かってつき進んだ。純種ではなく雑種によるようにして、さまざまな実在(ザイン)があるのをとるようにすれば、まちがった方向につっ走ってしまうのを避けやすい。

 純種のよき日本人が成り立たないのは、人間は天使のようではいられないからだ。よき日本人という本質をとってしまうと、天使主義の誤びゅうにおちいる危なさがある。それにおちいるのを避けるようにして、純種の歴史ではなく雑種の歴史をとるようにすると危なさは少ない。

 参照文献 『増補 靖国史観』小島毅