あまり人のことは言えないのはあるが、やりたいことはあるとして、やるべきことややれることが合っていないのが、いまの首相やいまの与党や、それをよしとする商品に見うけられる

 やりたいこととやるべきこととやれることがある。この三つを言っていたのは、予備校講師の林修氏である。この三つを、いまの首相による政権や、いまの与党である自由民主党や、愛国の色あいが大きいとされる新しく出た歴史の本に当てはめて見てみたい。

 愛国の色あいが大きい政治家や、愛国の色あいの大きい歴史の本では、やりたいこととして、日本をよしとしたいというのがある。日本が悪い(悪かった)ことについては認めたくない。たとえ事実であったとしても、日本をよしとするのにそぐわないような都合の悪いことであれば、それを何とかして無かったことにしたい。

 日本をよしとすることは、はたしてやるべきことなのだろうか。もし本当に、日本が不当に悪く言われているのであれば、それについて反論することはあってよいことだ。しかし、あったことや、あったおそれが少なくないことなのにも関わらず、それをまったくなかったというふうに言うのは、事実の否認になりかねないのでまずい。

 日本をよしとするのであっても、それが開かれた中で、よいことだけではなく悪いことも事実として認める形で行なわれるのであればよい。それで結果として日本がよいということになるのならかまわないものだろう。そうではなくて、たんに日本をよしとするというのであれば、日本をよしとすることはできてはいるが、そのやり方が強引にすぎたり、抜けや漏れがありすぎたり、偏りすぎたりすることになる。

 愛国の色あいが大きい政治家や、それによる歴史の本では、やりたいこととして、日本をよくするというのがとられている。しかし、それがやるべきことなのだとは言えそうにない。むしろ日本がいま抱えている悪いところをどんどん見つけて行くのが、いまの首相による政権に行なってほしいことだ。日本がいま抱えている大小にわたるさまざまな問題は、それが問題として見つけられなければ解決のされようがない。

 やれることとしては、日本をよくするということはごく表面においてはやれているが、ごく表面的に日本をよくすることがやれてもそれほど意味はない。開かれた中でものごとを行なうとか、(すぐに敵やアンチと決めつけないで)他からの批判に開かれているとか、日本に都合の悪い事実であっても認められるとか、そういったことがやれるのであれば、そのやれることには意味がある。

 いまの首相による政権は、国会において、ご飯論法や信号無視話法を多く用いているが、こうした詭弁や強弁のごまかしができても、害になることはあっても益になることはあまりない。独話や(同質の者どうしの)会話はできても、対話はほとんどできていない。日本をよくすることがやりたいのであれば、詭弁や強弁はとらないようにするべきだ。建て前ではあるが、石破茂氏が総裁選で掲げたように、正直、公正、となるべく行きたいものだ。

 やりたいこととして、日本をよくするというのがあるとしても、やるべきこととやれることを改めていま一度見直すことがあったらよいのではないか。やるべきではないことをやっていて、やれないことをやっているのであれば、やりたいことという志向性や遠近法が、そのまま世の中や世界に通るとは見なしづらい。