差別や憎悪表現(ヘイトスピーチ)ではないのなら、愚行には当たるおそれはあるが、発言は自己決定権(愚行権)に任されているのだと、自由主義の文脈では言えるだろう

 よく考えて、よく知ってから発言をしたのか。どれほどの覚悟があったのか。勉強が足りていないのではないか。芸能人が、政治のことがらで、アメリカの新しい軍事基地の建設に反対するような発言をしたことについて、そうしたことが言われている。

 芸能人は、アメリカの新しい軍事基地の建設に反対するような政治の発言をした。これにたいして、軽はずみの発言だとか、勉強不足の発言だとかいうことが言われている。

 もし芸能人が、軽はずみでなかったり勉強不足でなかったりするのなら、アメリカの新しい軍事基地の建設に賛成するというのだろうか。この見なし方にはちょっとうなずくことができそうにない。アメリカの新しい軍事基地を建設することに賛成することだけが正しいのではないだろう。反対するのがまちがっているとは言い切れそうにない。

 軽はずみだったり勉強不足だったり、または覚悟がそこまでなかったりするのは、反対することだけではなく、賛成することにもまた当てはまるはずだ。賛成する人がみな、時間や労力を十分にかけて判断しているとは見なせそうにない。

 よく知って勉強している専門家が、みんなもれなく正しいことを言うのだとはいえず、専門家であってもまちがうことはある。ことわざでは、さるも木から落ちるとか、かっぱの川流れと言われる。人間は神さまのような全能さを持ってはいないから、合理性の限界をまぬがれられない。

 アメリカの新しい軍事基地を建設することが、どこからどう見てもまちがいなく絶対に正しいのだとは仕立て上げられないのではないだろうか。軍事基地の建設に反対することは、まったくもって少しも正しくなく、完ぺきにまちがっているのだとは言えそうにない。

 どのようにおしはかるのかということでいうと、こういうことだから、アメリカの新しい軍事基地を建設するのが正しい、ということになる。または、こういうことだから、アメリカの軍事基地を建設するのはまちがっている、となる。そういった条件がつく。無条件で正しいということにはならない。演繹としてまちがいなく正しいことにはならず、がい然性(確からしさ)である帰納であるのにとどまる。

 こうだから正しいという条件について、いま一度改めて見て行く。確証(肯定)だけではなく反証(否定)をするようにしたい。もしかしたらまちがった前提条件がとられていることがある。

 芸能人の政治の発言が軽はずみだとか勉強不足だとかいうのは、もっと一般化して、一般として軽はずみなのや勉強不足な(政治の)発言はしてはならない、というふうでないと公平だとは言えそうにない。特定のある人だけに当てはめるのは公平さに欠ける。

 軽はずみや勉強不足ということであれば、発言についてよりも、意思決定のほうにそれがよりあるのではないか。軽はずみなのや勉強不足の意思決定は危ない。それを防ぐためには、国の政治の権力が、国民にたいして言葉を尽くして十分に説明責任(アカウンタビリティ)を果たさないとならない。国民からの厳しい声にたいして、それを国の権力は受けとめて、応答責任(レスポンシビリティ)を果たさないとならない。

 軽はずみなのや勉強不足におちいらないようにして、いったん立ち止まって改めて見直すことがいるのは、芸能人ではなく、国の政治の権力であるのだと言いたい。アメリカの新しい軍事基地を建設して、それを強引におし進めるので、本当によいのか。本当にそれが正しいのか。答えが一つ(単数)しかないという幻想におちいってはいないか。国の政治の権力は、こう自問してみたらどうだろうか。