何がしかの情報は得ているのだから、まったく勉強が不足しているとは言えそうにない(ある問題について、賛否が割れるのはとりたてて珍しいことではない)

 沖縄県辺野古に、アメリカ軍の新しい軍事基地を立てる。そのことに反対することを言うのは、勉強不足だ。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 辺野古の海岸に土砂が投入されたことで、自然の環境をぶち壊しているが、それを止めるのを含めて、新しいアメリカの軍事基地を立てるのに反対するのは、勉強不足に当たるのだろうか。それは決めつけなのではないだろうか。

 勉強不足なのは、新しいアメリカの軍事基地を立てるのに反対することではなく、むしろいまの首相による政権がそれに当たるだろう。いまの首相による政権は、強引にアメリカの新しい軍事基地を沖縄県につくるのをおし進めているが、これは万人が納得する解決の手だてにはなっていない。

 解決策になっているのなら、みんなが納得するはずだ。反対の声がおきたり運動がおきたりするのは、創造性のある有効な解決策になっていないことを示している。

 いまの首相による政権は、もっと勉強するべきである。もっと沖縄県や日本の全体で言われているさまざまな声を受け入れることがいるが、それができていないのだと言わざるをえない。

 勉強不足と言ってしまうと、欠如モデルにおちいってしまうが、そうではなくて反欠如モデルに立つことも欠かせない。勉強が不足しているというよりも、対話が不足しているのである。もっとさまざまな意見が活発に投げかけられてもよいのではないだろうか。勉強不足というよりは、意見をさまざまに言うことが不足している。

 論点としては、勉強が足りているかいないかではないのだから、そこを言ってしまうと、論点のすり替えであるくん製ニシンになりかねない。勉強が足りていないといっても、それはていどの問題にすぎない。

 場合分けができるとすると、勉強が足りていてもあっているとは限らず、まちがっていることはある。勉強が足りていたとしても、言うことが正しいという絶対の根拠になるとは言えない。勉強をたくさんすれば無びゅうになるのではなく、人間には合理性の限界がつきまとう。

 勉強とひと口にいっても抽象的だ。その範ちゅうにおいて、具体としては質や量に色々とあるのだから、勉強にまちがいなく価値があるとは言いがたい。勉強が足りていなかったら言うことが全部まちがうのではなく、あっていることはある。

 勉強が足りていたり足りていなかったりするのは、言っていることの正否を必然として導くものとは言いがたい。言っていることがおかしいのであれば、言っていることのどの点がどういうことでおかしいとかまちがっているのかを具体として言ってもらえると、論点がずれずにすむので助かる。

 どういう現状認識を持っているのかは、人によってちがう。みんなが一つの現状認識をもっているのではない。そこはさまざまにちがっていてよいものだろう。それぞれの人はそれぞれにおいてよって立つ立ち位置が異なっている。完全に客観というわけには行きづらい。何らかの偏向はまぬがれず、色めがねをかけている。発言には意図が入りこむことになる。

 勉強不足ということに加えて、代案を言わないのに批判をするのは駄目なのだという。代案を言わずにただ批判をすると、日本の政府が進めていることがこう着(停滞)してしまう。これについては、かりに代案がなかったとしても、言っていることは正しいことがある。代案がないからといって、言っていることが正しくないということにはならず、そこに相関があるとは言えそうにない。

 代案があるかないかというよりも、問題があるかないかということがある。政府の進めることに問題があるとしたら、そこを見落とさないようにしたい。いますでにある問題は表にあるので顕在だが、それだけではなく影にひそむ潜在のものもある。隠れた問題だ。可能性としての問題もある。時制でいうと、過去や現在や未来において、問題を見つけられる。

 日本の政府(とアメリカ)が進めていることが正しくて、それに反対する声がまちがっているとはいちがいに決めつけられないものだろう。日本の政府が進めていることについて反対の声がおきてくるのを、反対のための反対だというふうには決めつけることはできづらい。

 それなりに高い可能性の一つとしては、日本の政府(とアメリカ)が進めていることが、民意からかい離していて、虚偽意識(イデオロギー)と化していることがある。それで反対の声がおきるのだ。日本の政府がやったり言ったりすることが、民意や現実からかい離した虚偽意識と化しているおそれは決して低くない。日本の政府がやったり言ったりすることは、直接の民主主義ではないから、民の生の声でないことはたしかだ。これはあくまでも国の水準の政治に限った文脈での話だ。