圧倒的努力をしても、のぞむ結果が出ないものは少なくはないから、効力感(エフィカシー)ではなく無力感が当てはまることがある

 圧倒的な努力をして成功する。成功の結果が出ないのだとしたら、それは努力をしていないか、もしくはその努力が圧倒的努力ではないかだ。圧倒的努力をして成功の結果を出したとされる人はそう言っている。

 圧倒的努力というのはそれほどすごいことなのだろうか。そこが疑問である。ことわざでは、過ぎたるはおよばざるがごとしと言う。圧倒的努力というのは過ぎたものだとすると、およばざるがごとしとなる。

 ほどほどの努力でほどほどの結果が出ることのほうが、圧倒的努力をすることよりもよりよいと見なすことが見かたによってはできる。ほどほどであればそれほどこだわりがおきづらい。圧倒的努力をしたとなれば、それによってよい結果が出ようと出なかろうと、こだわりがおきてくることで、悪く働くことがないではない。

 圧倒的努力をして成功という結果が出たというのは一つの説話(物語)である。この説話はまったくの嘘だというのではないにしても、現実そのものだとは見なしがたい。多くの努力をしても結果として実を結ばないという説話(事例)もあるのはたしかだ。大して努力をしていなかったり、まったく努力をせずに結果だけが出たりというのもあるだろう。

 圧倒的努力をすることで成功という結果が出るのであれば、それはつり合ってはいるが、現実というのは完ぺきに合理的にできているとは言いがたく、つり合わないことは少なくない。圧倒的努力をすることによって成功という結果が出るというのは、現実にそうであるというよりも、そうであるべきだということによっていると見られる。圧倒的努力をしたことと、成功という結果が出たことは、原因と結果という因果関係で見ることはできるが、それとは別に、それぞれが別の独立した二つのことがらだというふうにも見られる。

 誰にでもできるような、手の届くことをやって行って、それでみんながもれなく成功の結果につながる。そうしたやり方を示してくれたほうが親切だ。圧倒的努力と言われても抽象的に響く。ばく然としているのでとりつく島がない。

 目標が大きすぎると失敗するおそれが小さくない。自衛隊では、目標を二つに分けて、必成目標と望成目標というのにするという。必ず達せられそうな小さな目標と、もしできることならなすことができたらよい大きなものに分ける。目の前に小さな目標があって、その奥に大きな目標があるといったものだ。

 圧倒的な努力をせよと言うよりは、できるだけやらなくてもよい努力が何かを言ってくれて、それをしないですませられることの方がよりありがたい。しないでもすむ努力はやらないですんで、どうしてもここだけはやらなければならないという努力だけを行なう。そうできたほうが効率がよい。

 努力とはいっても、努力するために努力するのではないのであれば、すべてをやるべきなのだとは言えそうにない。その範ちゅうの中には、それぞれの人が置かれている状況によって、やるべきではないものや、やってもやらなくてもよいものがあるものだろう。

 ものごとは時間や労力をかけるほど値うちがあるのだとは言いがたい。それとは逆に、時短ということでは、時間や労力をかけないほど値うちがあるのだというふうに見られる。時短においては、時間や労力がかからないほどのぞましい。圧倒的努力といっても、たんに不毛に消耗しているだけなのだとすれば、消耗しないですんだ方がよいことがある。

 すべてのものごとにおいて時短になる方がよいとは言えないけど、中にはそうであるほうがよいことはある。圧倒的努力というのとは話はちがってしまうが、時短にはならず、時間や労力をかけて、それで成功という結果に必ずしも結びつかないのだとしても、その過程において意味があることもあるだろう。サイバネティクスをおこしたノーバート・ウィーナーは、ものごとの終点ではなくその途中においてにしかものごとの意味はない、といったことを言っているという。