日本のかつての戦争に意義があるとは言いがたい

 大東亜戦争の意義をあらためて見直す。意義をあらためて見直すのはあってもよいのではないか。そう言われているのがあった。このことについて、大東亜戦争の意義をあらためて見直すことをあらためて見ることができる。

 大東亜戦争というのは戦争である。大東亜戦争の意義というのは、戦争の意義ということだろう。戦争に意義があると言えるのだろうか。戦争の中には意義のあるものもあって、大東亜戦争はそれに当たるのだと言う人はいるかもしれないが、これには個人としてはうなずくことはできそうにない。

 政治的公正(ポリティカル・コレクトネス)や建て前が入ってしまうのはあるが、一般としては戦争に意義があるとは言えないだろう。戦争には意義や意味がない、と言うことに意義や意味があるのではないだろうか。

 国際連合国連憲章では、戦争は違法とされている。例外はあるものの、基本として武力行使は禁じられている。これはこれまでの人類がたどってきた歴史のいきさつがとり入れられているものだ。絶対の真理とまでは言えないかもしれないが、国連憲章において戦争が法に反するとされているのは見逃すことはできそうにない。この法というのはもともとあったものが発見されたものだと見なせる。

 いまだに日本のかつての戦争によるあやまちについて、近隣国を含めて他の国から批判や非難を受けているのは、戦争は悪いことだという認識がとられているためなのがある。文化の力によっている。この認識そのものはまちがっていることだとは言えそうにない。

 日本のかつての戦争においては、アメリカから日本の地に原子爆弾が投下された。日本が侵略していた植民地(外地)にいた日本人にひどい暴力が振るわれて、数十万人の人がソビエト連邦のシベリアに強制連行された。この強制連行はソ連による違法行為だ。これらのことは、戦争の流れの中におけるものである。

 もし、日本のかつての戦争に意義があるというのなら、原爆の投下やシベリアへの強制連行をよしとすることになりかねないが、それはとうてい受け入れられるものではないだろう。加害や被害を含めて、ほかにも色々なことがあるが、これらのことの深刻なひどさをくみ入れれば、犠牲の量と質があまりにも大きすぎるので、意義があったとは見なすことはできない。

 戦争をして損をすることはあっても得をすることはない。そう見なすことができるだろう。まったく丸腰でいるのは危ないのはあるが、そこは必要最小限度の実力を持つことにとどめたいものだ。憲法との関わりにおいては、これに欺まんがあるのは避けられないかもしれないが。

 いまの与党による政権は、軍事費を増やして、アメリカから武器を買わされて、軍事の力を高めようとしているが、それで平和になるとは見なしづらく、むしろ危険である。いまの政権がやっている物理の力を高める方向ではなく、政治的公正などの文化の力を重んじたほうが効果が高いから、それを重んじてもらいたいものだ。日本のかつての戦争における意義というよりは、不戦ということを見直すべきだろう。