自虐思想(史観)かそうではないかというのは適した分け方とは言えそうにない(自虐思想からそうではないものへ、という価値の移行のしかたは、適したものとは見なしがたく、批判を投げかけたい)

 新しい時代において、日本の復活をする。そのためには、戦後のアメリカの連合国軍総司令部(GHQ)によって植えつけられた、戦後の日本の自虐思想を払しょくすることがいる。日本の民族の誇りをとり戻す。それができれば日本は新しく復活することができる。それで愛国の色合いの大きいとされる歴史の本を新しく出した。この本の作者はそう言っているという。

 日本を主体として、自虐思想を客体とすると、主体と客体を切り離してしまうのはうなずけるものではない。主体は悪くなく、客体がすべて悪いのだというのは、客体に悪いことを押しつけている。客体を悪玉化(スケープゴート)しているのである。

 戦後において日本は GHQ によって自虐思想を植えつけられたという。植えつけられたというのは、疑わなかったことだから、それを改めて見れば、植えつけられたということを疑うことがいる。これを疑わないのであれば、植えつけられたというのを植えつけられることになりかねない。

 日本の国や民族としての誇りをとり戻して復活するのだとしても、そもそも国や民族といったものは虚偽意識(イデオロギー)である。共同幻想だ。あくまでも仮のものとして日本の国や民族をとらえておいたほうがまちがいは少ない。

 戦後において GHQ が植えつけたとされる自虐思想があるとして、それは絶対の真理ということは言えないものだろう。そうは言っても、自虐思想とされるものによらないのであれば、絶対の真理になるのかといえば、そうとは言えないものだ。

 歴史観や歴史像は人間があらわす情報であって、情報には偏向はまぬがれない。まったく中立というわけには行かず、何らかの特定の視点を持つことになるし、意図が入りこむ。

 日本の国や民族としての誇りをとり戻して復活させるというよりは、理解をより深めて行ければよいのではないだろうか。そうするためには、単一の、たとえば GHQ による自虐思想の植えつけといったものだけをとるのではなく、もっとさまざまな複数のものによる方がのぞましい。複数のもののあいだでつき合わせることによって、単一のものだけで全体をおおってしまうのを避けられる。

 歴史をとらえるさいに、自虐かそうでないかという分け方よりも、雑か雑でないかというふうに分けた方が、雑にならないようにするにはよい。かりに自虐ではないとしても雑なのであれば台なしだ。雑なのであれば、偏ることになるので、信ぴょう性や説得性が低い。ツッコまれるとはなはだ弱い。そこを強くするためには、できるだけ雑にならないようにして、ていねいに時間をかけてやって行くのがいる。

 日本の国や民族においては、消長(浮き沈み)の流れがある。誇りをとり戻して復活しようとして、早まって浮こうとしてもそう簡単に浮かび上がるものではないだろう。せっかく浮かび上がろうとするのであれば、早まって浮こうとするのではかえって沈んでしまいかねない。

 見たくはない過去や、都合の悪い過去に目を閉ざして耳をふさぐのではなく、なるべく過去の悪いところを見たり聞いたりすることによってはじめて浮かぶことができる見こみがおきてくる。順説ではなく逆説にはたらく。東洋の陰陽思想でいうと、陰が陽に転化するといったことがある。

 作家の星新一氏が言っているように、過去にペーソスを、未来にユーモアを、といったふうにしたい。過去における悪いことを簡単に風化させたり忘れたりするのではなく、そこを想起しつづけることが過去にペーソスを持つことにつながる。