保守や愛国において、過去の日本がおかした失敗のように、促成として早くものごとを進めてしまうことで、まちがうことになる危険性がある

 保守かどうか。愛国かどうか。それらによるさいに、気をつけないとならないのは、てっとり早くやってしまうことではないか。というのも、戦前や戦時中の日本は、国をあげて愛国をしたわけだが、そのさいにてっとり早くものごとを行なってしまい、大きな失敗につながった。

 保守や愛国によるのだとしても、てっとり早くやるのはまちがいを生みやすい。それでまちがってしまうのは、戦前や戦時中の日本がたどったのと同じ道を歩むことになってしまう。

 迂(迂回路)は曲線である。それとはちがい、直(直線)をとると時間が早くてすむ。しかしそこにはわながある。戦前や戦時中の日本では、迂をとらず、そこを経ずに、直をとってしまったことで、早くはあったがまちがってしまった。

 早いことによるまちがいを避けるためには、直をとるのを避けるようにして、迂をもってして直となすようであればよかった。直をとらずに促成によらないようにして、迂である時間をかけた間接さをとるようにする。

 戦前や戦時中の日本では、促成としてものごとを進めていったことで、おかしくなってしまったのだから、それと同じ道を歩まないようにすることが、おかしくならないためにいることだろう。

 促成によるてっとり早さとは、早いことである。効率がよいことだ。効率がよくて早いことは、正しいことに裏うちされてはじめて意味をもつが、正しくなくてただ早かったのが、戦前や戦時中の日本のあり方だろう。

 保守や愛国によるさいに、正しくなくてただ早いということになると、まずいことになる。保守や愛国だから正しいとは言えないのは確かだ。そこは保証はない。まずは、てっとり早くやってしまわないようにすることで、まちがいを防ぎやすくなる。

 いまの与党による政権は、首相を頭として、正しくなくてただ早いものごとの進め方が多く目だつ。このさいの正しさとは、実質だけではなく形式(手つづき)によるものも指す。このことは、いまの与党による政権が、過去の日本がおかしたあやまちの経験から教訓をろくに得ていないことを示していると見られる。