賃金が上がっていないと感じるのはその人の感性によるという財務相による見解に見られる虚偽意識(イデオロギー)

 賃金が上がっていないと感じるのは、その人の感性による。記者からの質問にたいして財務相はそう答えたという。じっさいに、いまの政権のもとで毎年二から三パーセントの賃金の上昇がおきていると財務相はしている。

 賃金が上がっていないことは、その人の感性によると財務相は言うが、賃金は数値で示されるのだから、感性が入りこむものではないだろう。何かの数値がそのままだったり下がったりするのはすべて感性によるのだろうか。賃金が上がっていないことについてどう受けとめるのかは感性によるだろうが、賃金が上がっていないことそのものは感性によるとは言いがたい。

 賃金が上がっていないことを、その人の感性とするのは、原因の特定としてふさわしいとは言えないものである。その人の感性に原因を特定するのは、財務相による認知の歪みだろう。賃金が上がっていないのを、その人の感性によるとするのでは、まちがって個人の要因にしてしまっている。そうではなく、感性といったその個人の内ではなく、その外にある、その人の賃金が上がっていないことに原因を見ないとならない。きわめて当たり前の話ではあるが。

 巨視と微視は分けて見ることがいるだろう。いまの政権のもとで毎年にわたり二から三パーセントの賃金の上昇がおきているといっても、それはあくまでも巨視の話にすぎない。巨視と微視はぴったりと合うのではないから、巨視がどうかということで微視の個人がすべて救われるのではない。微視においてはこぼれ落ちている個人は少なくないのであって、そこに巨視の話を持ち出してもずれが埋まるものではなく、たんなるごまかしになるだけだ。

 財務相が言うような巨視のことは、いまの政権にとって都合のよいものだけを持ち出していることによる。いまの政権にとって都合の悪いものは持ち出していないのだから、偏った虚偽意識(イデオロギー)である。

 財務相はいまの政権にとって都合のよい巨視のことを持ち出してそれでこと足れりとするが、それで足りるものではない。国家の公である巨視よりも、個人の私の微視のほうがより重んじられることがいる。

 個人の私よりも国家の公のほうが重んじられてしまえば、個人の私が不公平に犠牲になることで国家の公が成り立つことになる。これはおかしいことだろう。いまはそうなっているところがある。これは、これまでのもそうだが、とりわけいまの政権の愚かさによるところがはなはだ大きい。