圧倒的努力をすれば成功できるかは疑わしい(成功者や生存者の認知の歪みがはたらく)

 圧倒的努力をすることで成功する。成功したことを改めて見れば、その人は圧倒的努力をしてきている。その途中では憂うつになることはあるが、それでもやりつづけることで成功につながる。そんなようなツイートがツイッターで言われていた。

 圧倒的努力というのは努力のうちの一つだから、さしあたっては努力ということにしておきたい。努力をすれば成功すると言えるのだろうか。これは一つの仮定による物語だということができるだろう。成功するというのは将来のことであって、そうなるかどうかは仮定にとどまる。

 努力を手段として、成功を目的とすることができる。成功である目的がまちがっていれば、いくら努力の手段を積み重ねてもふさわしい結果にはならない。明らさまに目的と手段がまちがっていることがある。そのことにあとになってから気がつく。歴史においては、過去の日本の戦争はそれに当てはまる。

 成功である目的がふさわしいかどうかと、それの価値がどうかがある。価値がどうかというのは人それぞれのものだ。成功にさして価値がないことがあるし、努力の手段を積み重ねていないこともある。成功から努力をおしはかれるとすれば、成功にさして価値がないのなら、その結びつきにおいては努力にもまたさして価値がないか、またはそこまでの努力をしていないと受けとれる。

 成功するのにおいて努力は十分条件とは言えそうにない。必要条件ではあるかもしれないが、ものによっては必要ですらないこともあるだろう。努力はどちらかというと自力による。それよりも、人間は一人では生きては行けないというのにおいて、他力によるところが成功には大きい。他力の力があって成功に結びつく。そこには幸運も大きく関わる。

 努力と成功の関係では、努力は手段とできて、成功は目的とできる。努力は成功の目的に向かって効率が高くなるように行なわれる。このさい、成功の目的が正しいものなのかを改めて見られる。たとえば、資本主義の経済の中で勝つことを成功とするのなら、それははたして正しいことなのだろうか。

 資本主義の経済の中で勝つには、ほかの者を負けに追い落としたり、無駄に地球の資源を浪費したりするのを避けづらい。利益を上げるためにずるをしたり手ぬきをしたり搾取をしたり差別をしたりすることはまぬがれない。本当に正しいことをやっていたら勝てなくなる。成功しづらい。

 成功のために努力をするのと、努力をしていたら成功したのとでは、含みがややちがう。成功のために努力をするのは運動(キネーシス)だが、努力をしていたら成功したさいの努力は活動(エネルゲイア)であることがある。あまり成功ということを求めないで何かをやっているのなら、その結果がどうなるかにはあまりよらない。運動では動機が外発だが、活動では内発だ。そのちがいがある。

 運動と活動は、哲学者のアリストテレスが言ったことであるという。運動は目的をその行為の外に持つもので、不完全なものだ。活動は目的をもたないもので、完全なものだとされる。

 成功すれば幸せになれるとは限らない。逆に、幸せになれれば成功ということもできるかもしれない。必ずしも行為の外に目的をもった運動をすることはいりそうにない。運動をする中で、目的を目ざす途中で無理をして努力をすることでひどく憂うつになるのは大きなマイナスだ。ひどくつらかったり憂うつになったりする代わりに成功するとしても、差し引きでプラスになるとは限らない。金銭で言えば、お金を多く持てば幸せになれるとは限らない。お金がなさすぎると不幸なのは確かだが。