頭が硬いこと

 頭が硬い。自分の頭がそうであることを自覚する。そしてそれを改めるように努める。努めては来たが、他の人から見れば、いぜんとして頭が硬いままだと映る。それで他の人からは頭が硬いと言われてしまう。そういう話があった。

 前から自分の頭が硬いことを自分で自覚していて、それを改めようと努めてきたのにも関わらず、他の人からは頭が硬いと言われてしまう。変わろうと思っても、なかなか人は変わりづらいものだ。

 自分の頭が硬いことから、それを自覚して、柔らかくなるように改めて行く。それが客観としては功を奏さず、他の人からは頭が硬いと言われてしまう。自分では、柔らかくなるように努めてきて、じっさいに柔らかくなってきたという主観の実感はある。しかし、他の人が自分のことを頭が硬いというのだから、いまだに頭が硬いのかもしれない。

 自分では、頭の硬さを柔らかくしようとして、それに努めたことで、前よりは柔らかくなったと実感することができる。しかし他の人からすると、頭が硬いと言うのである。他の人がそう言うのだから、それをまったく頭から退けるのは難しい。他の人のほうがよく見えているかもしれない。

 このさい、頭が硬いということの意味を改めて見るのはどうだろうか。頭が硬いというのは、改めて見れば、硬いと言えば硬いだろうし、硬くないと言えば硬くはない。そこまで厳密なものではない。世界でいちばん頭が硬いわけではないだろう。いちばん頭が硬い人と比べれば柔らかい。

 頭が硬いというのは、二人くらいの人どうして比べてみたときにどちらの人が硬いか柔らかいかということになる。相対の比較のものにすぎない。比べる人がちがえば、自分の頭が硬いこともあるだろうし柔らかいこともあるだろう。

 何から何まで頭が柔らかい人というのはいるのだろうか。ある人があるものごとについては頭が柔らかいが、ちがうものごとについては硬い。何にこだわりを持っているのかによってちがう。どんなことのどんな所がゆずれないのかがある。それは人によってまちまちなものだろう。

 頭が硬いのを柔らかくすることができればそれに越したことはない。それはそれでよいことだろうけど、それとは別に、頭が硬いということを柔らかくしてしまうのは手としてあるかもしれない。(自分の頭ではなく)頭が硬いということを柔らかくとらえてみる。基本として人はみなそれなりに頭が硬いものだとか、または頭が柔らかいものだとかとする。質のちがいではなく量(ていど)のちがいにしてしまう。頭が硬いのには価値はなく、頭が柔らかいのに価値があるとして、その価値をひっくり返してしまうことができれば、頭が硬いことは必ずしも悪くはない。