フランスでおきたデモに見られる、フランスと日本の自由さのちがい

 フランスではデモが行なわれた。このデモが行なわれたことで、じっさいの政治を動かした。大統領は、デモにおいて主張されていたことを部分的に受け入れた。デモをしたことはまったく無駄にはならなかった。

 フランスではデモが行なわれたが、日本ではあまりそういった動きはおきていない。フランスのように、日本でもデモを行なってじっさいの政治を動かすことはできないものだろうか。それができたら、いまの首相による政権の多数にのぼるまちがった行ないを少しは改められるかもしれない。

 フランスと日本にちがいがあるとすると、フランスはより自由なのがある。フランスよりは日本は自由が小さい。そのことによって、フランスではデモがおきて、日本ではそれがおこらないのではないだろうか。このこと一つを理由にしてしまうのはあまりにも乱暴かもしれないが。

 フランスとはちがい日本では自由よりも空気を読むことが重んじられる。デモで暴れてはいけないというかくあるべしが日本では先に来る。

 日本でも学生運動のさいにはそうとうに大規模なデモが行なわれていた。その他にもデモが行なわれることがある。しかし活発にデモが行なわれているとは言いがたい。行なう必要があるときにデモが行なわれているとも言いがたいのがある。

 頻度の話にすぎないものだし、地道にデモを行なっている人に失礼なことを言ってしまっているかもしれない。それはあるのは確かだが、もっとさかんに日本でデモが行なわれてもよいといえるくらいに、政治や社会はひどいことになってしまっているのではないか。

 フランスが自由なのとはちがい、日本では空気を読むことがとられる。いまの首相による政権が生き霊になって、日本の社会ににらみをきかせている。これは御霊(ごりょう)信仰によるものだ。亡くなった人にたたられるのを防ぐために、御霊として供養する。そうすることで益をもたらすものになるという。権力者などの生きている人では、生き霊となって、その生き霊を周りがとり立ててしまう。

 上の者からにらまれると弱い。とりわけ大手の報道機関にそれがあらわだ。そこに危なさがある。デモを行なうのだけではなく、報道の自由がもっと高まったほうがよい。そのほうが日本の社会は今よりもよりよくなるのではないか。

 報道の自由の点を含めて、フランスよりも日本は自由さが劣っているのがある。大きな話で言えばのものだ。じっさいにはフランスにはフランスの不自由さがあって、日本には日本の自由さがあるだろうから、単純化はできないのはあるだろう。