野党が支持されないことには色々な要因がからんでいるだろうから、必ずしも野党の力の不足によるのだとは決めつけられそうにない(原因の帰属がどこにあるのかが関わってくる)

 与党の数の力によって押し切られた。野党はそうした文句を言う。しかし、有権者である国民は国会の野党の議席を少ない数しか与えていない。その理由について野党の議員は考えていないし反省もしていない。そうしたツイートがツイッターで言われている。

 野党はなぜ有権者である国民から、少ない支持しか得られていないのか。これには色々な要因がからむ。一つの要因があるだけとは言えそうにない。そのうちで、一つの要因としては、具体の野党というよりは、抽象としての野党の意義が十分に理解されていないのではないか。

 野党は与党にたいする反対勢力(オポジション)だ。自由民主主義では、与党が一党あるだけではなく、野党があることがいる。与党と野党が複数あることでお互いに競争がとられないとならない。与党がすくいそこねてとり落とした民の声を野党はすくい上げる。そうして民の声が包摂される。

 いまの日本のあり方では、野党の力がたいへんに弱い。弱いことによって、競争性や包摂性がうまく働いていない。与党が多くの議席をもち、多数の数をとってしまっている。与党と野党のあいだに競争が働いていないために、与党は腐敗してしまっている。与党の政権は説明責任(アカウンタビリティ)を果たさず、ご飯論法や信号無視話法を多く用いているしまつだ。与党の政権が説明責任を十分に果たさなければ競争性ははたらかない。

 野党の力が弱く抑えられてしまっているために、与党の腐敗と暴走に歯止めがかかっていない。これは、野党の力の不足というよりは、与党による自由民主主義の破壊によるところがかなり大きいだろう。与党が破壊しているのは自由民主主義に限られるのではなく、色々なものを壊していると見られる。

 これまでの選挙においては、与党は多くの議席を得て、多くの数をもっている。それはたしかだが、あくまでもそれはこれまでの選挙のやり方を前提条件にしたものだろう。

 これまでの選挙では、国民にとって大切な政治の争点がきちんとおもて立ってとり上げられているのか。多くの国民が選挙に積極の関心を持てるようになっているのか。あきらめや無関心におちいらされていないか。政治家(候補者)がお互いに建設的な主張をして、建設的な議論ができているのか。答えはすべてノーであって、イエスであるとは言えそうにない。

 なぜ野党が国民から少なくしか支持されていないのかを反省する。それを考える。野党はそれをすることがいるというよりも、むしろ、それとは別に、選挙や政治のあり方を反省することのほうがより重要なのではないだろうか。これまでの選挙のやり方やあり方ではたして本当によいのか。もっと充実した中身のあるやり方をすることができれば、それができるように改めるようにしたい。

 政治においても、与党が多くの議席や数を得ているという既成事実をそのままよしとするのではなく、そのことが本当にふさわしいことなのかや、大衆迎合(ポピュリズム)によって多くの数を得てしまっていることを危ぶむことがいる。

 反省するのや考えることにおいては、野党が自分たちの議席や数の少なさを反省したり考えたりするのはあってよいが、それよりもより大事なのは、もっと大きな論点や視点にあるのではないだろうか。

 もっと大きな論点や視点として、日本の全体の選挙のあり方や政治のあり方や社会のあり方が、はたしてこのまま進んでいってよいのかや、これまでに与党が進めてきたあり方でよかったのかを、ふり返ることをしつつ改めて見ることができればよい。

 たんに、野党が弱いから駄目だとか、野党が自分たちで考えたり反省したりすることが足りていないから駄目だとか、そういった話ですむのだとはどうも見なしづらい。野党が弱くて、少ない数しかもっていなくて、あまり支持されていなのは、与党による独裁になっていて、社会における寛容性がそうとうに損なわれてしまっていることを示している。

 野党がいることの意味すなわち必要性が十分に理解されていないので、少ない数しか許容されていない。それですべてが尽くされるわけではなくて、もっと色々な理由があるだろうけど、一つにはそうしたことがあげられる。