まちがったおきてによらないようにして、できるだけ法によってほしいものだ(本が売れなくて厳しいのはあるだろうが)

 はじめに出された本と、増刷された本とで、中身がちがう。中身がちがうことは、出版社や作者からまったく明言されていない。 はじめに出された本と、あとから増刷された本とで、中身がちがうが、それらが同じ値段で並列されて売られている。

 はじめに出された本よりも、増刷された本のほうが、中身が改まっている。中身が改まったのは、はじめに出された本を買った読者の一部から、ここがおかしいとかあそこが変だとかとさし示されたことによる。本の中で、他から引用したのにも関わらずそれを明記しないで、ちょっと文言をいじって載せている。

 一部の読者からの声を受けて、テレビ番組の中で作者は引用を事後的に認めた。本の中で五〇〇ページ中の一ページはウェブのウィキペディアから引用したのだという。しかし、一部の読者の調べでは、一ページにとどまらず、少なくとも二パーセントはあちらこちらから引用しているとのことだ。

 読者からの指摘を受けて出版社や作者は中身を少しだけ改めた。そのことを読者におもて立って明言していない。そのまま、はじめのも増刷されたのもいっしょくたに売りつづけている。こんなことがあってよいのだろうか。

 新しく出された愛国の色あいが大きいとされる歴史の本では、こんなことをしているのだという。このてんまつを見てみると、なぜ法がいるのかが分かる。なぜ法がいるのかと言えば、たとえ愛国であっても人間は性善だとは言えず、(愛国であっても)抜けがけでずるをする者が出るからだ。

 法の決まりを守らないで一部の出版社や作者が本をつくってよいとは言えそうにない。それをさせないためにも、具体の義務である法はいるのが分かる。法の決まりを守らないで一部の出版社や作者が新しい歴史の本を出したことで、人間の性悪なところが裏打ちされた。

 たとえ愛国の色あいが大きいからといって、内部のやりかたによるまちがったおきてによって本をつくるのはまずい。まちがったおきてによるのではなくて、法を守ることで本をつくってほしいものだ。まちがったおきてによるのだと、一部の出版社や作者が抜けがけで利益を得ることになる。法を守らないことによって、短期では一部の者が利益を得られる。この利益は法からすれば正当なものだとは言えそうにない。

 まちがったおきてをとらないようにして、法を守ったうえで本をつくるのならよかった。大部分の出版社や作者はそうしているが、新しく出た歴史の本をつくった出版社や作者は、そうではないと見られる。

 新しく出た歴史の本をつくった出版社や作者は、まちがった内部のおきてをとっている。このおきてをとってしまうと、法によって抽象に引き上げられない。法を守るのは、広くみなに当てはまることだから公平になりやすい。しかしそれを守らずに、まちがったおきてをとるのであれば、抽象に引き上げられずに具体にとどまる。

 抽象に引き上げられずに具体にとどまることで、特定の者が偏って利益を得るのを許す。これはおかしいことだろう。具体にとどまって、特定の者が偏って利益を得るのは、その者が性悪であることをあらわす。人間が性悪であるのを見こして、具体にとどまらないようにして、具体の義務である法を守ることの必要性がある。

 本の話とはちがうが、いまの政府による政権や一部の省庁は、法(憲法)を守らないことをしていて、不祥事をおかしている。上である自分たちには甘いが、下にだけ厳しいのだ。愛国ということで、いまの上の悪いあり方を真似ようとする下が出てくるのも無理はないところがある。