与党がおし進めようとしている憲法の改正の議論は、民主主義による議論になっているとは見なせそうにない(立憲主義から言ってもおかしいものだろう)

 野党を抜きで、憲法改正の話し合いを行なう。野党は欠席をするが、与党だけで憲法の改正の話し合いを進めてしまおうとする。与党はこうしたことをしているが、このことについて立憲民主党蓮舫議員は、数の力の強引さを通り越して、力関係の嫌がらせ(パワー・ハラスメント)になっていると言っている。

 憲法の改正についての議論を行なうさいに、野党が議論の場に出てこないで欠席をする。これを野党が職務を放棄しているのだと見なす。職務を放棄している野党はいけないことをしているとする。それで与党(とその補完勢力の野党)だけで憲法の改正の議論を進めることは、はたしてふさわしいことなのだろうか。

 野党を抜きにして、与党とそのお仲間だけで憲法の改正の議論を進めるのは、個人としてはうなずくことができるものではない。こうしたやり方は、民主主義から言ってもおかしいことだろう。民主主義から見てもおかしいことなのだから、憲法の改正を議論するさいのふさわしいやり方とは言えるものではない。

 憲法の改正を議論するさいにも、当然のことながら、民主的な議論を行なうようにしないとならない。民主的な議論を行なうのであれば、たんに憲法の改正をよしとするものだけしか認めないというのははなはだおかしい。

 民主主義による話し合いにおいては、憲法の改正の提案や、憲法の改正の対案をもっていなければ駄目だというのは適していないことだ。そうした提案や対案をもたずに、制度の保守主義として、現状を維持(保持)するのもまた広い意味での提案であり対案だと見なせる。提案や対案をもっていないのでも批判を投げかけられるのが許されることがいる。

 何ごとにおいても、何でもかんでも変えるのが正しいとは言えないのだから、それは憲法の改正の議論にも当てはまるものである。何でもかんでも変えるのが正しいのであれば、これまでのあり方を変える提案や対案をもっていないとならないことになるが、そうではないのだから、現状を維持(保持)するということが十分に認められるのでないとならない。そうでなければおかしい。

 かりに憲法を改正するにしても、そのための議論において、危険性を慎重に見て行くようにすることがいる。それを行なわないのは拙速となりやすく、急進主義である。

 与党がおし進めようとしている一方的な憲法を改正するための議論のやり方は、民主主義から言ってもおかしいし、立憲主義から言ってもおかしいものだ。二重におかしいように映る。憲法を改正するのが絶対に駄目だというのではないし、憲法を変えないことが絶対に正しいのでもない。憲法を改正するのだけが正しいという前提条件を与党がとるのであれば、民主的な議論につながるのはのぞめない。

 非民主的な一方的で強引な議論によって、憲法の改正の議論をおし進めていって、それで憲法の改正の正当性があると言えるのだろうか。過程をていねいに進めてもらいたいものだが、いまの与党とそのお仲間にはそれを期待するのはきわめて難しい。