歴史の本の内容がまちがいなく正しいとは限らないのだから、それの逆が正しいことも場合によってはある(日本はよいとするような内容だったら、その逆が正しいこともある)

 アメリカの歴史の教科書を学んだ子どもたちは、みんなアメリカが好きになる。誇りに感じる。アメリカの人はそう言っているという。それを聞いて、うらやましくなると共に、なんで日本にはそういう本がないのかと落胆する。

 アメリカの歴史の教科書のような本が日本にはないのであれば、自分がそういう本を書けばよい、と思いあたる。それで、愛国の色あいが大きいとされる歴史の本がつくられることになった。

 まず、きっかけとなったアメリカの人が言うことを見てみるとすると、これはかなり疑わしいものだろう。好きか嫌いかというのはかなり単純な感情である。好きなら好きだとか、嫌いなら嫌いだというのは、一つの国(自国)にたいして当てはまるものだろうか。好きでもあり嫌いでもある、というふうに両価(アンビバレント)になるものだろう。

 子どもたちがみんなアメリカのことが好きになって誇りに感じるというのは本当のことなのだろうか。みんなもれなくアメリカのことをよく思うというのはちょっと信じがたい。あまりにも画一的すぎていて平準化されすぎている。

 アメリカには、黒人のことを奴隷としてあつかっていたのがある。黒人への差別が行なわれていた。このこと一つをとってみても、単純にアメリカの国のことを好きになったり誇りに思ったりするわけには行きづらいものだろう。

 新しい歴史の本を書くきっかけとなったという、アメリカの人の言った発言は、うのみにすることはできがたいものだ。

 日本のことを好きになったり誇りに感じたりしてもらうことを動機として、歴史の本をあらわすのは、日本のことをよしとするような純粋な動機がとられている。この純粋な動機というのは、大義や正義であるために、危険さがつきまとう。

 純粋な動機による大義や正義は、かくあるべしという当為(ゾルレン)によるものだ。日本はよい国であるべきだということで、純粋な動機でつっ走るのは失敗につながりかねないものだ。

 過去の日本の歴史においては、日本という国は正しいものだとして、純粋な動機によってつっ走ってしまったために、自国や他国の国民にいちじるしい不幸をもたらした。戦争に負けることによって、日本は正しいといった純粋な動機によってつき進んだことのまちがいがわかることになった。

 歴史の本をあらわすのにおいても、日本はよい国だといった純粋な動機によってのみものごとを進めるのに待ったをかけたいものだ。日本はよい国であるべきだといった当為を絶対化しないで相対化するようにしたい。

 日本はよい国だとか、そうでないというのは、実証としては言えるものではないだろう。実証として言えるのは、よいとかそうではないというのを抜きにした、日本は一つの国であるというのにとどまる。日本がよいかそうでないかというのは、実証のものではなく、価値についてのことであって、それは人それぞれの遠近法によって異なる。

 歴史とは話はちょっとちがうけど、日本の国の中で生活していて、ある人が不幸な目にあったとしたら、それでその人が日本の国をよいとするのはおかしいのではないか。日本という国が、大きな物語として、よいというふうにはできづらい。小さな物語にすぎないものであって、よいとするかそうでないとするかは、自己決定に任されている。

 日本という国が大きな物語として、国家の公ということで幅を利かせて、個人の私を二の次のものにするのだとしたらそれはおかしい。国家の公よりも個人の私のほうが優先されるべきだろう。ある個人が何らかの理由によって日本の国のことを信用できないとか悪いとかするのであれば、まず国の信用のできなさや悪さに焦点が当てられるのがのぞましい。日本という国が信頼できるとかよいとかするのは、まったく悪いことなのではないが、国からの呼びかけ(イデオロギー)にすなおに従ってしまっているのはいなめない。