メタの国会を開く

 国会において、よりよい議論を行なう。より中身のある充実した議論を行なう。そのためには、国会についての国会といったような、メタの国会を行なってみるのはどうだろうか。

 よりよい国会にして行くにはどうするべきか。これを逆から言えば、国会を悪いまま(いまのまま)にしておいてよいのかということになる。悪いままにしておくというのは、やりっ放しにしておくことである。

 やりっ放しでもよいではないか、というのは言えるかもしれない。まったく悪いというのではないが、やりっ放しだと、省みることがとれない。省みるのは後ろをふり返ることだが、これが欠けているのはまずい。たんに前を向いて進んで行くだけでは正しいあり方になりづらい。

 メタの国会においては、与党と野党を含めた国の政治家の全員を、一つの集団とする。そして、その集団において、みんなによる学びをとるようにする。開かれた国会をふり返って、どこがまずかったのかや、そのまずいのは何が原因となっているのかを見て行く。原因について手を打つようにして、改めるようにする。

 どの政党にまかせるかとか、どの政党は駄目だというのではなく、それよりもむしろ、国会が全体としておかしくなっていてまずいことになってしまっているのではないだろうか。国会の議論に構造の問題がある。

 構造の問題を何とかするためには、どの政党が与党であるのがよくて、どの政党が野党なのかというのよりも、どの政党が与党であっても、または野党であってもそれなりにうまく行くようにできればふさわしい。

 具体としては、与党が自由民主党だったり、野党が何々党だったりするわけだが、そこをさしあたってはカッコに入れるようにする。それで、国会において、議論がうまく行なわれないことを改めるようにする。引きつづきこれまでのやり方をやるのは参与(コミット)だが、それを反省するようにして離脱(ディタッチ)すると、見えていなかったところを見ることができやすい。

 具体においては、与党が自民党だったり、野党が何々党だったりする。それで、どの政党にまかせればよいとか悪いとかいうのがある。それは置いておくとして、国会の議論における構造の問題を見てみたい。それを見るのであれば、与党と野党を含めて、国の政治家の全員が、一つの組織として学ぶことができればよいのがある。高次の学習をすることができれば、国民にとっての益になる。

 高次の学習をするためには、構造の問題を見るようにして、国会においてうまく議論が行なわれるための、組織としての学びを行なう。この学びのためには、国会を開きつづけるだけでは駄目で、上の次元によるメタの国会を開くようにする。

 仮想の話にすぎないものではあるが、メタの国会を行ない、現実の国会への参与(コミット)から離脱(ディタッチ)する。そうすることによって、いままでに気がつかなかったり見えなかったりしたことが、新しく気がついたり見えたりすることにつなげられる。

 与党と野党を含めて、国の政治家の全員を一つの組織とするさいに、組織の学びをすることで、日本を少しでもよくすることができるのではないか。これをするためには、当選(票)につながるとか、お金もうけになるとか、支持を得られるとかいう外発のではなく、内発の動機づけがとられることがいる。内発の動機づけを持つのは、表面的なうわべの効果ではなく内実をとることだ。いまの与党の権力をになう政治家に内実をとることを期待するのは、個人としてはできそうにない。