自分が気に食わないから、表現や言論をとり除こうとすることにおいての、自分が気に食わないということを改めて見てみたい

 自分が気に食わない表現や言論がある。このさいの、自分が気に食わない表現や言論というのは、改めて見るといったいどういうことをさし示しているのだろうか。

 表現や言論の自由をとるべきだ。その自由を制限したり規制したりするのはけしからん。表現や言論にたいする弾圧だ。こうした文脈において、自分が気に食わない表現や言論を、制限したり規制したりしようとしているだけだろう、という声が投げかけられる。

 この声について、改めて見てみることができるとすると、そもそもが、誰においても、自分が気に食わない表現や言論はあるものだ。自分が気に食わない表現や言論がまったくないということはありえづらい。

 ある表現や言論があって、それが自分にとっては気に食わないものと受けとれる。それで、その表現や言論について、いかがなものかといった表現や言論を言ってみる。そのいかがなものかという表現や言論が、自分にとっては気に食わないものだという人が出てくる。

 一次の、自分にとって気に食わない表現や言論がある。それについて、否定的な見かたを投げかける表現や言論を行なう。その表現や言論にたいして、二次の自分にとって気に食わない表現や言論だという人が出てくる。一次と二次のちがいはあっても、自分にとって気に食わない表現や言論だという点では共通点がある。

 たとえ自分にとって気に食わない表現や言論であったとしても、それを認めようというのが、表現や言論の自由だろう。これは建て前のようなものだとすると、じっさいには、自分にとって気に食わない表現や言論を認めるのではなく、認めないことがおきてくる。

 問題となるのは、ある表現や言論が、自分にとって気に食わなくなってしまうという点にある。そのさいに、たとえ自分にとって気に食わないからといって、それに関わらず、認めようというふうにはものによってはなりづらいことがある。そのなりづらいものとは、とりわけ、自分にとっては気に食わないという、その度合いの高いものだ。

 表現や言論の自由には、そのもととして、自分が心や頭でどう思うのかの自由がある。ある表現や言論について、自分はこれは気に食わないなと思うのは自由といえる。そう思うのは自由だとすると、それを表現や言論であらわす自由もある。この自由を認めるのが、表現や言論の自由なのではないか。

 これこれこういった理由によって、自分はある表現や言論が気に食わない、ということを表現や言論であらわすことは自由である。ここまではよいとして、ここから先が難しいかもしれない。ここまでにおいては、ある表現や言論をどう認知するかと、どう評価するかによる。この先には、どうするべきかの指令があるが、ここに難しさがある。

 建て前(形式)としての表現や言論の自由というのは、どうするべきかの指令を含んでのものなのだろうか。それとも指令は除いたうえでのものなのだろうか。たとえば、指令として、これこれこういった理由で、この表現や言論はこの場ではふさわしくはないから、やめたほうがよい、という表現や言論は、行なう自由があるのだろうか。

 改めて見てみると、自分が気に食わないというのは、動機論による忖度になっている。自分が気に食わないものだから、制限したり規制したりしようとするのだというのは、動機論による忖度で見たものだ。なので、これはできるだけとらないようにしたほうが、生産的な議論につながりやすい。

 自分が気に食わないのはあるかもしれないが、それだけによるのではなくて、またちがった理由があるのだとすれば、それを見て行くようにしたい。動機論による忖度を抜きにしたうえで、ある表現や言論を、どう認知して、どう評価していて、どういう指令を言っているのかを見て行く。そのように腑分けをして、その一つひとつをそれぞれに受けとるようにする。そうするようにすれば、かみ合った議論になりやすい。

 たんに自分が気に食わないから、ある表現や言論を制限したり規制したりしようとするのだというのでは、もしほんとうにそうであればともかく、そうではないこともあるので、もうちょっとちがう見かたをしてみてもよいのがある。

 場合分けをしてみると、自分が気に入る表現や言論があったとしても、よいものもあれば悪いものもある。自分が気に食わない表現や言論があったとしても、よいものもあれば悪いものもある。このうちで、自分が気に食わない表現や言論で、なおかつ悪いものもあるのをとり上げてみる。これをとり上げるとすると、たとえ自分が気に食わない表現や言論だったとしても、だからといってその表現や言論が悪くはない(まちがっていない)ということには必ずしもならない。

 たとえ表現や言論の自由があるのだとしても、具体の表現や言論を、すべてよしとするのでは、すべての具体の表現や言論を確証(肯定)することになりかねない。そうではなくて、具体の表現や言論について、反証(否定)するような認知が中にはあってもよい。

 反証(否定)にたいして開かれていたほうが、健全な表現や言論と言えるのではないか。このさいの反証(否定)というのは、たんに頭ごなしに駄目だとするというよりは、質や文脈(コンテクスト)についてを議論し合うものである。議論や討論というのは、命題(テーゼ)だけではなく、反命題(アンチテーゼ)があったほうが行ないやすい。

 表現や言論の自由は、ものすごく大事なものなのだから、それにたいして反証(否定)するのはおかしいのではないか。確証(肯定)するだけでよいのではないか。そうしたことが言えるのはある。これについてを改めてみて見られるとすると、一つには、表現や言論の自由というのと、それを含んだ発言とに分けて見られる。

 表現や言論の自由ということ(語句)だけでは、それがたとえものすごく大事なものであったとしても、正しいのかまちがっているのかを見づらい。これを、一つの発言(文)として見るようにすると、必ずしも確証(肯定)だけではなくて、反証(否定)もとれるようになる。

 一般論として、ある発言を無条件に正しいとはできないのがあるから、それを持ち出してみると、表現や言論の自由に言及した発言についても、無条件に正しいとすることは必ずしもできない。どのような発言であっても、それを無条件に正しいとすることはできないので、表現や言論の自由を根拠にした発言についても、反証(否定)が成り立つ。頭ごなしに丸ごと否定するのではないとしても、部分的な否定はできることがある。

 表現や言論の自由を根拠にするとしても、それだからといって全面からその発言が肯定されるとは限らず、ものによってはまちがっていることがなくはない。じっさいの現実では、さまざまな制約条件がとられることで、自由が制限されたり規制されたりすることは少なくない。

 社会というのは、まったく制約条件がかからずに、完全に無制約でよいというのはありえづらい。制約には、功罪の両面があるのはたしかだが、まったくそれがないほうがよいというのなら、社会が成り立ちづらく、無秩序になってしまう危険性がある。多少は制約がかかってしまうのがあるとして、それが行きすぎればまずいが、ほどほどのものであれば、とんでもなくおかしいとまでは言えそうにない。