日本を悪くするだろう手だてと、よくすることができるかもしれない手だて

 日本をよくする。そのためにはどうしたらよいのだろうか。逆にいえば、日本を悪くするにはどうしたらよいのか。一概にこうだとは言い切れないものだが、一つには、日本を悪くするためには、いまのままで放っておけばよいだろう。

 日本を悪くするためには、いまのあり方のように、与党が野党を煙たがっていればよい。与党は反対勢力(オポジション)をうとましく思っていればよいし、それを行動に移していればよい。

 どちらかだけが絶対に悪くて、どちらかだけが絶対によいというのはありえづらい。与党はまちがいなくよいとは決めつけられないし、野党などの反対勢力はまちがいなく悪いとは決めつけられない。

 日本を悪くしたいのなら、いまの与党がやっているように、野党などの反対勢力を敵だと見なして、味方と敵を分けるようにするのがふさわしいものだ。味方は厚遇して、敵は冷遇する。味方であればかばい、敵であれば冷たくつき放す。法の下の平等は二の次だ。法の下の平等は、長い目で見れば利益にはなるが、短期においては必ずしも利益にはならない。ちなみにこれ(法の下の平等を軽んじること)は皮肉で言ってみたものである。

 日本を悪くするのではなくて、よくしたいのであれば、味方と敵に分けるのはふさわしいことではない。味方と敵に気やすく分けるのは大衆迎合(ポピュリズム)だ。そうするのに待ったをかけるようにしたい。

 味方を厚遇して、敵を冷遇するのではなく、むしろ敵を厚遇するようにする。味方は自分たちに近い。敵は自分たちに遠い。遠い者を歓迎や歓待(ホスピタリティ)するのである。これの意味するところはというと、与党と野党が仲たがいするのではなく、ともに協力をし合い、日本をよくするための手を見て行くようにする。ともに探って行く。

 与党と野党が仲たがいしていることにも意味はあるではないか、というふうにも言えるのは確かだ。お互いに手を結び合ってしまえば、大政翼賛のようになりかねない。独裁や専制のようになる。それをおしとどめる重要な役を果たすのが、権力チェックをになう野党などの反対勢力だ。権力が分立していることもいる。

 国会では、与党はご飯論法や信号無視話法を多く用いている。話し合いがかみ合っていない。これは、反対勢力である野党のことを冷遇しているのをあらわす。自分たちから遠い者である野党のことを、歓迎や歓待していない。そのために、与党は独話(モノローグ)になってしまっている。せいぜいが近しい者どうしの会話にとどまっている。

 日本をよくして行くためには、自分たちから遠い者を冷遇するのをやめて、逆に厚遇するようにして、対話(ダイアローグ)をするようにしたい。与党にはその姿勢が問われている。野党などの反対勢力を敵だと見なして、うとんじているようでは、ごう慢におちいらざるをえず、多くの国民(未来の国民を含む)を巻きこむ形での失敗を避けづらい。