人や時期(時代)によってちがいがあるから、それらをすべてひとまとめにして、一つの日本という国や日本人はどうだというのは、ステレオタイプ(観念による思いこみ)になっている

 日本という国に誇りをもつ。父祖に感謝をする。日本人として生まれてよかった。新しく出された日本の歴史を語った本は、そうしたねらいがあるのだという。

 日本のことがはじまりから現在まで通時によって語られているとして、そこで言われている日本という国とはいったいどういったものなのだろうか。というのも、日本のはじまりから二〇〇〇年くらい経っていまの日本があるわけだけど、その二〇〇〇年くらいのあいだにわたって、日本という一つの国があったと言えるのだろうか。

 いまでは北海道や沖縄県を含めて日本の国というふうに言えるが、近代に入る前まではそうではなかったものだろう。北海道や沖縄県は含まず、本州の内陸部を中心としたところが、かつてにおいては日本と呼べるとすればそう呼べるところだったのではないか。

 厳密にいうと二〇〇〇年ではないだろうけど、かりに二〇〇〇年くらいの時間があるとして、そのあいだを一つの日本という国があったとするのは無理がある。

 人間の体でいうと、およそ一年間くらい経つと、体の細胞はかなりのていど入れ替わっているという。体の細胞からいうと、一年くらい経つと別人になっている。まったく同じ人間だというのではない。

 日本という国においても、その中の人が入れ替わっているのがある。体制が大きく変わっている。別の国だという見かたもできるだろう。まったく同じというふうには見られない。

 まったく同じなのではないのにも関わらず、どうして日本という一つの国が引きつづいていると見なすのか。そう問いかけられるとすると、その答えとしては、日本という一つの呼び名を用いているのがあるからだろう。日本という一つの呼び名を用いることで、あたかも日本という国がはじまりから現在まで引きつづいているような錯覚が生じる。

 思想家のミシェル・フーコーは、知の考古学というのを言っているという。同じ一つのものが引きつづいているように見えるものであっても、一つのものが連続しているのではなく、非連続になっている。地層のように複数の層がある。知の枠組み(パラダイム)は移行して行く。

 日本という一つの国が二〇〇〇年くらいにわたってつづいてきているというのではなく、そのあいだにいくつもの断絶があるとしたほうが、分けることにつながるので、分かることに役だつのではないか。

 これまでにはいくつかの断絶があり、可逆的ではない一定の不回帰点(ポイント・オブ・ノーリターン)がある。たとえば戦前や戦時中と戦後には対照となる断絶がある。断絶はあるものの、まったく回帰しないという絶対の保証はないかもしれない。都合のよい歴史修正主義などによって、いったん否定したものに再び回帰しようとする二重運動(否定と回帰の運動)が引きおこされているのはいなめない。

 日本という国がよい国だとか、日本人はよいというのは、かりに一〇点満点でいうと一〇点になるとしよう。ある人にとっては、日本や日本人は一〇点の価値があるかもしれない。それがまったく非現実なことであるとは言えそうにない。しかし客観的な現実そのものかというとそうとは言い切れない。

 ある人にとって、日本や日本人は一〇点満点のうちで一〇点だとしても、他の人にとってはそうとは限らない。一〇点という価値を基礎づけできないのだ。一〇点あるとすれば、そこから色々な日本や日本人のマイナス点を見て行くことで、点数をさし引くことができる。九点、八点、七点となって行き、〇点に近いということになる人も中にはいる。まったく生きることに希望が持てない人もいるからだ。日本や日本人が一〇点だというのなら、〇点に近いという人がいてよいものではないだろう。

 質によるものだから、量で言うのは必ずしも正しいものではないが、一〇点満点であるとすると、みんなが一〇点とするのではないし、みんなが八点とするのでもない。かなりのばらつきがおきてくる。ばらつきがあるうちで、一〇点というのは極端だし、〇点というのもまた極端ではある。極端ではあるが、文脈としてはどちらも成り立つのはある。

 一〇点満点のうちで一〇点かそれとも〇点かというのは極端ではあるが、かりにその二つを見るとすれば、二つのうちでどちらが本当の日本や日本人なのだろうか。どちらかだけが本当の日本や日本人なのだろうか。

 日本という国や日本人には、よいところもあれば悪いところもあるから、一〇点だけというのはないし、〇点だけというのもまたない。日本や日本人が一〇点だというのは、そうあるべきだというところがある。かくあるべしということだ。

 かくあるべしとは別に、かくある(かくあった)日本や日本人はどうかというと、ずっと〇点だったというのはないにせよ、ずっと一〇点満点だったというのは現実的ではない。人によってもちがうし、時期(時代)によってもちがう。色々な点数による文脈を含みもっている。定まっているのではなく変わるものだから、定数ではなく変数だ。