過去の戦争において、他国にたいして日本がおかしたあやまちである、従軍慰安婦や徴用工の問題における、国どうしの約束ということとはまた別の、埋め合わせによる正義の問題

 国どうしの約束を守れ。約束を果たせ。日本は韓国にたいしてそう言う。約束というのをふまえれば、たしかにそう言うことはまちがっていることだとは言えそうにない。

 国どうしの約束というのは置いておけるとすると、つり合いをどうとるのかというのを持ち出せる。不つり合いなのをどう改めるかだ。このさいの不つり合いとは、埋め合わせることをあらわす。まだ埋め合わせが十分ではないとすれば、不つり合いになっているので、それを改めることがいる。

 日本としては、国どうしの約束を過去にしたことによって、埋め合わせをしたとしている。不つり合いは改められて、つり合いがとれたと見なす。しかし、韓国においてはそういうふうに見てはいない。国どうしの約束を過去にしているからといって、個人の点から言っても、埋め合わせられてはいない。不つり合いのままになっている。

 日本がとっている論点としては、国どうしの約束を過去においてしたというのを主としている。国どうしの約束をしたという論点において、その約束を守れとか果たせというのを言っている。しかし、それとはまたちがう論点を持ち出せるのがある。その論点だけで尽くされるものではない。

 ちがう論点としては、日本が引きおこした過去の戦争において、日本がおかしたあやまちにたいして、きちんと埋め合わせをしているのか、というのがある。埋め合わせは十分にできているのか。できていないとしたら、不つり合いになってしまっているので、それを改めないとならない。そうした問いかけを投げかけてみるのは決して無駄なことではない。

 日本と韓国が、国どうしのあいだで過去にとり結んだ約束は、手段ではあっても目的ではないだろう。何の目的のための手段なのかというのが肝心だ。手段にこだわって固着するのではなく、目的を見ることがあればよい。

 何の目的のためなのかを見るのであれば、それは日本が過去において引きおこした戦争という悪いことのつぐないをするためだろう。悪いことのつぐないをするものなのだから、日本がえらそうに言える立ち場なのかとかえりみられる。日本は下手に出なければならない立ち場なのではないだろうか。

 戦争のさいに日本が引きおこしたあやまちを他国(の人たち)に十分に埋め合わせていないと国際連合は告げている。国連はこう告げているが、これを日本は聞かないことにしてよいものなのだろうか。国連のほうがまちがっているというふうに見なしてよいものなのだろうか。そうとは言えそうにない。国連が告げていることを、そのまま丸のみにするのではないにしても、少なくともたとえ日本にとって耳に痛いことであるにせよ、それを受けとめて聞き入れるのはあってほしいものだ。

 いまの日本の首相は、韓国にたいして、国際約束を守れというふうに言っている。国際約束というのはあまり聞いたことがないものだが、かりにそれがあるにしても、それはあくまでも日本の言い分にすぎないものだろう。その言い分とは別に、なぜ韓国は(日本が言う)国際約束を守らないのか、というふうに問いかけを投げかけられる。

 たんに、(日本が言う)国際約束を韓国は守らないように見えるのは、現象である。その現象がおきているのにたいして、(日本が言う)国際約束を守れと言ったところで、その現象にたいする真なる解決の手だてになっているとは言いがたい。なぜそうした現象がおきているのかということで、原因をさぐって行き、問題の所在を見て行くのであれば、日本がまったく悪くはないと言えるものではない。日本にまったく非がないとは言えないものだろう。

 悪いところや非を韓国にだけなすりつけるのではなく、日本もまたそれを引きうけるべきではないだろうか。なぜそれを引きうけないとならないかといえば、国どうしのあいだに、過去の戦争にまつわることを含めた因縁があるからである。国際約束というよりも、それを包みこんだより大きなものである、過去の戦争にまつわることを含めた因縁を見てみるのはどうだろうか。そこからの応答責任(レスポンシビリティ)をとるようにしたい。

 感情として納得してもらえているかという正統性が十分に無いのだとすれば、そこを十分に満たすようにするのがあればよい。感情として納得して受け入れられるかどうかが十分ではないのだとすれば、円満になっているとは言いがたい。立ち場を固定せずに、かりに日本が韓国の立ち場であったとすれば、いまの韓国と同じようなことを言わないという確かな保証があるとは言えないものだろう。