反対派(アンティ)が生まれること

 反対派(アンティ)はなぜ生まれるのか。それは面白いからというのがあるのではないか。あることについて、たんに賛成とするだけではそれほど面白くないことがある。反対をしたほうが、自分の言いたいことが言いやすい。言うことの動機づけがとりやすく、強度が出やすい。

 反対派は悪いものなのだろうか。賛成派はよいものなのだろうか。必ずしもそうとばかりは言えそうにない。賛成派は必ずしもよいとは言えないのは、賛成することによって、まちがったことをおし進めてしまうことがあげられる。そうではないという絶対にまちがいのない確かな保証はとれそうにない。

 賛成するだけなのであれば、そこには反対が欠如している。その反対に、反対するだけなのであれば、賛成が欠如していることも確かだが。

 反対派だからといって価値がまったくないとは言えず、賛成派だからといって価値が高いかどうかは定かとは言えそうにない。反対派には価値はなく、賛成派には価値があるという前提条件はいかなるさいにもとれるとは言いがたいものだ。

 反対派は、賛成せずに反対に回る。その反対派にたいして、賛成派はうとましい気持ちをもつ。煙たがることがある。これは、賛成派が反対派にたいして反対しているのを示す。みんなが賛成すれば、反対する人はいないわけだけど、そういうわけにはなかなか行かないことが少なくない。反対派と、そうではないものがあるのではなく、すべてが何らかの点において反対派だというのも成り立つ。似ていることから、対立し合うということがある。力(権力)への意志によるさまざまな遠近法だ。

 自分たちに反対する者たちを、抵抗勢力と呼ぶ。改革するさいにそうすることがあるが、このさいに改革をおし進めようとしているのは、これまでのあり方にたいする反対をしているのをあらわす。そこから、これまでのあり方を改革(変革)しようとすることになる。その改革する者にたいして反対派がおきてくることがある。この反対派は、改革をよしとはしない。これまでのあり方に賛成していることを示す。

 改革をよしとするのではなく、そうしない者を抵抗勢力と呼ぶことがあるが、この抵抗勢力を反対派ととらえられるのはあるものの、あくまでも一つの視点というのにすぎない。抵抗勢力を反対派と言うことができるのは、改革するのをよしとすることによっている。改革するのをよしとはしないのであれば、これまでのあり方に賛成するのにたいして、改革をしようとするのはその反対派だ。視点のちがいによって、賛成になったり反対になったりする。これは、賛成するのと反対するのは関係によって成り立つことによるからだろう。

 賛成の文脈をとるとして、そうすることによってその逆となる反対の文脈がとられることがある。はじめの賛成の文脈をとった人にとってみれば、自分の文脈が正しいとしたいものだ。自分の文脈とは逆に当たる、反対の文脈をまちがいとしたい。しかし、そうすることが正しいとは限らない。認知の歪みが働いていることは少なくない。

 自分が賛成の文脈をとるとして、それを正しいものだとしたいのはあるが、その逆である反対の文脈のほうが正しいことがある。自分の文脈とは逆である反対の文脈のほうが正しいことがあるので、それをくみ入れられればまちがう危険性を避けやすい。単一ではなく、複数の文脈をすり合わせるようにする。文脈どうしが正面からぶつかり合うのを避けるようにする。そうすることができれば、教条(ドグマ)におちいるのではないようにできて、修正がきかせられる。