フリーのジャーナリストが行なったことにたいする受けとめにおける、費用対効果

 中東の紛争がおきている地域に行ったフリーのジャーナリストにたいして、自己責任だとの批判の声が投げかけられた。そのいっぽうで、フリーのジャーナリストの行動はよいものだとする声もあげられている。

 フリーのジャーナリストは、中東の紛争がおきている地域に行って、そこで武装勢力に身がらを拘束された。三年ものあいだ身がらを拘束されつづけて、解放されるときに身代金を三億円ほど求められたと言われている。この三億円は日本政府は支払ったわけではないようだ。他国の政府が支払ったということだが、確かなことは不明と見られる。

 日本の社会の中では、いまの政権を含めて、フリーのジャーナリストが行なったことについて、温かいまなざしで見るのではなく、冷たい目を向けて、厳しい声を投げかけることが主としておきた。

 はたして、自己責任論を当てはめて、フリーのジャーナリストの行なったことを自己責任だとして片づけるのがふさわしいのだろうか。これを見るさいに、費用対効果を持ち出してみることができる。

 費用対効果を持ち出すさいに気をつけないとならないのは、費用にたいする効果ははっきりとはしがたい点だ。費用がかかりすぎているように見えて、そのいっぽうで効果が薄いように見えるのだとしても、表面的な皮相な見かたになっていることがある。これに気をつけておくことは無駄ではない。

 費用と効果のつり合いというのは、費用がどれだけかかって、そのいっぽうで効果がこれだけあがったということによる。費用がこのくらいかかっているということだけをもってしてよいとか駄目だと決めつけると、早まってしまうことがある。費用とは別に、効果がどれくらい見こめるのかを十分に確かめてから、総合として見るのでも遅くなることはない。

 費用だけではなく、効果とのかね合いを見られるとよい。そうするさいには、一方的に裁く(否定的に働きかける)のではなく、たずねる(肯定的に受けとめる)ことがあるとやりやすい。たとえ合意はできないとしても、理解を少しでも進めることはやりようによってはできるものだろう。

 日本の社会の中では、裁くべきところ(お上など)が裁かれず、たずねる(声を受けとめる)べきところがたずねられていないのが目だつ。厳しく見るべきところが甘く許されていて、声を受けとめて理解を少しでも進めるべきところへの無理解や誤解がおきている。その一つのあらわれとして自己責任論がとられている。ちぐはぐになっているのは、何とかなってほしいものだ。