なれる自分と自由の幅(ケイパビリティ)

 なりたい自分と、なれる自分がある。心理学者の市川伸一氏はそう言っている。このうちの、なれる自分というのは、自由の幅(ケイパビリティ)に通じるものだと見られる。この自由の幅というのは、潜在能力ともされているもので、学者のアマルティア・セン氏が言っていることだという。

 なれる自分を広げて行くのは、自由の幅を広げて行くことをあらわす。これを広げて行くのを自分で行なう。それをまわりが手助けできるとよい。

 何らかの事情によって、なれる自分が広がって行かずに、狭まってしまうことがある。自由の幅が広がるのではなく、狭くなる。これは不幸なことだ。この個人の不幸を減らすようにすることが、国などによる社会福祉に求められる。

 いまの日本では、国などによる社会福祉が不十分になっていて、自己責任論がはびこっている。なれる自分や自由の幅が、何らかの事情によって狭まっている個人がいるとしたら、それを自己責任だとして片づけてしまう。これは適したあり方とは言えそうにない。

 いまの政府や役人は、外国人技能実習制度をおし進めようとしている。それで日本の社会に外国からやって来る人を呼びこもうとしている。もしそうするのであれば、外国から日本の社会にやってきた人の、なれる自分や自由の幅を不当に狭めるのはよくないことだろう。それを狭めるのではなく、広げるように手助けすることがのぞましい。

 日本の社会だけに限らないものではあるが、日本の社会に話を限定するとすると、その中にいる多数の個人において、何が重要なことなのか。それは、憲法でも保障されているような、自由なのではないだろうか。個人がとれる自由をなるべく広げられるようにする。それが狭まるのは個人が置かれた不幸だが、その不幸を減らして行けるように、社会福祉などを充実させて行く。国などにはそれが求められるが、現実はそれとは逆になってしまっているように見うけられる。

 個人が、自分はこうありたいとして、なりたい自分を思いえがく。そのなりたい自分と、なれる自分とのあいだにみぞがおきる。自由の幅がうまい具合にとれなくなっている。これは個人が抱えた問題だが、この問題を特定の個人に限定すると、自己責任論になってしまう。しかしそうするのではなく、それを社会の全体の問題に広げることがあったほうが、温かい社会なのだと言える。

 個人が抱える問題を、社会の全体で手助けするようにして、なれる自分や自由の幅を広げられるようにする。それが狭まっているのをそのままにしておかないようにすることは、個人の不幸を放っておかないようにすることであるから、危険性を社会化できていることになる。危険性を個人に押しつけるのは危険性の個人化だ。これは自己責任論であって、冷たい社会だと言えるのではないだろうか。いまの日本の社会はそうなっているところがあると見なしたい。