新しく出された歴史の本にある内容のほうが正しくて、学校の受験のほうがまちがっているということに見られる、認知的不協和の解消

 受験生は、新しく出た歴史の本を参考にしないでほしい。受験には役には立たないからである。しかし、まちがっているのはいまの受験の方だ。新しく出た歴史の本は、いまの受験には役に立たないが、内容はこちらのほうが正しい。だから、受験生は、受験が終わってから、新しく出た歴史の本を読むようにしてほしい。

 新しく出た歴史の本をつくった人は、受験生にそう呼びかけているという。受験で出されることがまちがっているというのだから驚きだ。一つの疑問が頭に浮かんできざるをえない。なぜ受験生は、まちがっていることを受験でやらされているのか、である。

 ふつうであれば、受験で行なわれていることは正しいものだろう。正しくないものなのだとすれば、受験生はまちがったことをやらされることになるのだから、何のために受験が行なわれているのかがわからなくなる。せっかく受験をするのだから、そこで正しいことがあつかわれていなければ、信頼は大きく揺らぐ。

 新しく出た歴史の本をつくった人は、自分のつくった本の内容が正しくて、受験はまちがっているのだという。ふつうは逆だろうけど、これについては、認知的不協和とその解消の心理がはたらいていると見られる。

 ふつうであれば、受験であつかっていることが正しくて、それとそぐわないのであれば、新しく出た歴史の本に疑わしいところがある。通説から離れた独自の説ということになる。しかしそれを受け入れたくはないため、認知的不協和の解消をとることになる。受験がまちがっているのだとすることによって、認知の不協和は解消する。

 こうであるという現実と、こうであってほしいという思いによる擬似現実との、区別がはっきりとはしなくて、ないまぜになってしまっているのだろうか。こうであるという現実と、こうであってほしいという思いによる擬似現実とが、内面において入れ替わってしまう。そういうことがおきているのかもしれない。

 疑似現実というのは虚偽意識(イデオロギー)だが、これは現実とは離れてしまっているので、疑似現実を現実だということはできづらい。疑似現実から排除されたものが生み出されることになる。その排除されたものによって、疑似現実と現実とのずれや隔たりをさし示すことができる。

 疑似現実は虚偽意識であり、それによって排除されるものが生み出されるが、それがうまく隠ぺいできていないと、完成度が低いものになって、ほころびが色々と見いだせることになる。