ヒストリーのストーリー(物語)における開かれの度合い

 ヒストリーの語源はストーリーだ。これは、私たちの物語なのだ。新刊で出た歴史の本の売り文句にはそう記されている。この本は小説家によるもので、愛国の色合いの大きいものだとされている。

 あたかも免罪符のようにして、ヒストリーの語源はストーリーだと言うのはどうなのだろうか。硬派と軟派でいうと、ストーリーだということなら軟派に当たってしまいかねない。

 人間のやることであれば、主観が入りこんでしまわざるをえないから、多かれ少なかれ物語(ストーリー)になってしまうのはある。たとえ物語になるとしても、軟派に偏りすぎないようにして、きちんとした裏打ちをもたせて、客観になるように努めることがのぞましい。

 自虐史観はよくないということで、愛国の色合いの大きい歴史を語る。それで新刊の本がつくられたのがあるだろうけど、愛国の色合いの大きい歴史だと、日本が過去におかした戦争にまつわる悪いことが過小に見なされてしまうのがおきてくる。

 日本が過去におかした悪いことを過小に見なすのは、歴史の見なし方としてふさわしいものだとは言えそうにない。日本が国として、過去に悪いことをしたのにもかかわらず、罪を中和化することになるからだ。罪の中和化の技術にいくら長けたとしても、それは歴史をきちんととらえて語ることにはならないのではないだろうか。

 歴史の新刊の本には内容に送り手の主観が入っているだろうし、それを受けとる受け手の主観もそこにつけ加わる。主観がいくつもの層にわたって入りこむことになるから、まったく主観の入りこんでいない客観にたどりつけるものではない。

 歴史の客観の真実は示せるものではないのだから、白か黒かといったように割り切らないようにしたいものだ。白なら白として、新刊の本の内容をまったくの真実としてしまうのは極端だ。極端にならないようにして、一体化するのではなく距離をとるようにしたほうが危険性は少ない。物語は複数のものによって相対化するようにして、一つのものを絶対化しないようにしたほうが安全である。

 日本の過去の歴史において、戦争では、従軍慰安婦や徴用工などの主題があるが、それらの主題について、さまざまな切り口の語り方をすることができる。従軍慰安婦という主題においては、一つだけではなく色々な文脈(言説)をとれる。複数の文脈がある中で、そのうちの一つのものをよしとすることの根拠や意図を見ることができる。

 一つの主題について、色々な切り口や語り方があるとしてしまうと、相対主義になってしまうのはあるが、一つの切り口や語り方だけを絶対の教条(ドグマ)としてしまうよりは多少はよいものだろう。ある主題について、何か一つの切り口や語り方をよしとするのは、それぞれの者が、特定の思想や物語のにない手となっていることをあらわす。