カロリーがゼロになる理論の信ぴょう性

 カロリーゼロ理論が言われている。この理論はお笑い芸人の人によるものである。

 ドーナツの形は〇キロカロリーをあらわす。ドーナツの真ん中はくり抜いてあるが、甘い食べ物は真ん中にカロリーが集まってくるので、そこをくり抜いてあるので残りのカロリーはゼロだという。

 カステラは小さく押しつぶしてしまえばカロリーがゼロになる。

 お菓子の柿の種は、小さくて辛いのでカロリーが燃焼するからカロリーはゼロになるという。

 カロリーは熱に弱いものであるため、油で揚げてしまえばカロリーはゼロになる。熱でカロリーは死ぬ。

 アイスクリームは冷たいからカロリーはゼロである。アイスクリームにカロリーはない。

 肉まんは白いからカロリーが白紙に戻ってゼロになる。

 お笑い芸人の人によるカロリーゼロ理論ではこうしたことが言われている。この理論はとても面白いものだ。こうあってほしいとか、こうだったらよいなというのを言っている。ボケのネタであるものであり、受けとる人は真に受けることはなく、ツッコミをしつつ受けとるものだろう。

 真に受けることはまずないものではあるが、あえて批判をさせてもらえるとすると、もしカロリーゼロ理論が正しいものではなくまちがっているのだとすると、カロリーがゼロというよりは信ぴょう性がゼロということになる。

 一般に、おいしいものほどカロリーは高い。カロリーを多く摂りたくなければ、カロリーの低いものを食べればよいけど、カロリーの低いもので積極的においしいものは多くない。

 おいしいものはカロリーの高いものだが、おいしさをとると、そこにカロリーの高さがくっついてくる。カロリーを多く摂ってしまうことになる。ここに問題がおきてくる。この問題の解決の手だてとして、カロリーゼロ理論があみ出されることになる。

 カロリーゼロ理論によって、問題は解決されることになるのか。おいしくてカロリーの高いものを食べると、気がとがめるものだが、その気がとがめるのを減らすという問題の解決にはなる。しかし、カロリーの高さが低くなったりゼロになったりするのではないから、その点での問題は解決していない。

 気がとがめることではなく、カロリーの高さという問題を解決するためには、カロリーゼロ理論で言われていることを一つの仮説として、じっさいに検証をしてみることがいる。それでカロリーがゼロにならないようであれば、まちがった仮説ということになる。

 せっかく面白いボケのネタなのに、それにケチをつけるのはよけいなことであるのはまちがいない。そこをあえて言わせてもらえるとすると、カロリーゼロ理論の問題点があるとすれば、それは土台がぜい弱なところにある。土台がぜい弱なので、言っていることの説得性を下げて見ることができる。

 ボケのネタだから、面白ささえあれば説得性はとくにいらないものだ。ネタによる面白さを置いておけるとして、説得性を見てみるとすると、一つの見解において、反論が成り立つ。カロリーについての性格づけが正しいものではなくてまちがっている。独断と偏見になっている。

 カロリーがゼロになったらよいなという思いがあって、そこからカロリーゼロ理論がつくられている。はじめの出発点において、認知の歪みが大きく働いている。はじめの出発点において、いかに認知の歪みが働かないようにするかが肝心だ。はじめに歪みが大きいと、それによってあみ出されたものの全体の中によくない雑音(偏向)が多く混じりこむことになる。雑音だらけということになってしまう。

 人間のなすことには、雑音が多かれ少なかれ混じりこむことにはなるが、それをくみ入れるようにして、合理性の限界があるのをわきまえるようにしておく。絶対にまちがいがないとするのではなく、教条(ドグマ)にしないようにして、相対化することができればのぞましい。