金しばりと先祖供養に、因果関係や相関関係があるかどうか

 毎年の夏に、高野山に先祖供養に行っていた。ある年、たまたまそれに行けなかった。中学校の部活の試合があったためだという。試合のあった日の夜に金しばりにあった。

 金しばりにあった次の日に、そのことを母親に話した。高野山に先祖供養に行かなかったから金しばりにあったのではないか、と母親は言う。母親に言われたことに納得する。先祖供養に行くのは大事なのだと自覚する。それいらい、毎年にわたり先祖供養に行くのを欠かさないとのことだ。

 新聞の投稿で、高校生が言っていることである。高校生はこの投稿で、先祖のことをたまには思いおこすことをすすめている。先祖を大切にする心をもつことが大事だとしめくくっている。

 高校生の国語の教科で、論理国語と文学国語に分けることが、省庁によって決められたと報じられている。くわしくは、論理国語と文学国語と国語表現と古典探求の四つであるそうだ。

 このうちの論理国語からすると、高校生が新聞に投稿したなかで言っていることは、もうちょっとつっこんで見ることができるのがある。投稿の中で、金しばりにあったのを、先祖供養に行かなかったからではと母親は言っているが、これをうのみにしないことができる。

 毎年にわたり行っていたのを、その年にかぎってたまたま先祖供養に行かなかった。そのことと、その行かなかった年において、部活の試合があった夜に金しばりにあったこととは、必ずしも因果関係は成り立たない。

 金しばりにあったのは現象である。その現象の原因として、毎年にわたり行っていた先祖供養を欠かしたことが当てはまるかは定かではない。あくまでも仮説にとどまっている。決定的な結論とまでは言えるものではない。

 先祖供養をしたり、先祖を大事にしたりすることに価値を見いだすのは悪いことではない。それとは別に、高校生の国語(論理国語)の教育という点からすると、言っていることのすじ道が必ずしも通っていないところがある。

 意地が悪い大人の言うことではあるが、批判的な見かたが成り立つのはたしかだ。金しばりにあったのは、毎年にわたり行っていた先祖供養をその年にたまたま欠かしたことに原因があるとははっきりとは言いがたい。因果関係について、確証(肯定)だけではなく反証(否定)することができる。

 先祖供養をしたり、先祖を大事にしたりすることに価値がないわけではない。個人が自分でよしとする中においてそれらを行なうのはよいことだろう。それらをすることによって、よいことがおきるとか、またはしないことによって悪いことがおきるかは、定かとは言えそうにない。

 定かではないのは、たとえば金しばりにあうことと、先祖供養を欠かしたことは、独立した別々の二つのことだと見なせることによる。関係していないと見ることが一つにはできる。二つが関係していると見なすのは、応報として見ることによるものだ。応報というのは、こうしたらこうなるといった説話(物語)だが、この説話は現実とぴったりと合っているとはかぎらない。虚偽(創作物)であることがないではない。