生成され、対象化され、つくられ、生産されることで、男性と女性の性のちがい(差)がおきている

 性の少数者(LGBT)と言っても、男か女かだけだろう。それだけだ。LGBT は政治による策略であって、完全なでっち上げだ。テレビ番組の中で、アメリカの国民の一人はそう言っていた。

 アメリカの国民の一人は、テレビ番組の中で、男か女かだけしかないという。かりにそうであるとしても、男性と女性の二つがあるのは、実体ではないという見かたが成り立つ。実体ではなく関係によっている。

 関係論からすれば、実体ではなく関係によっているとすることができる。男性と女性は関係することで成り立っているが、そのあいだの分類線は揺らいでいる。男性と女性という大きな物語が安定しては成り立ちづらい。

 記号内容(シニフィエ)にそった記号表現(シニフィアン)ということで言うと、男性と女性のほかに、LGBT を持ち出すことは必要になってくるのがある。記号が増えることで、記号内容にそっていない記号表現をとらされるのを避けられるようになる。見かたを変えて見れば、男性と女性ということの虚偽性が、LGBT を持ち出すことによって浮かび上がってくる。