自己責任論と共有地の悲劇

 ある人が集団の中でかたよった形で大きな負担を負う。それでその人は苦しむ。これは共有地の悲劇がおこっていることをあらわす。

 この人が集団の中でかたよった形で大きな負担を負って苦しんでいるのは、はたして自己責任であると言えるのだろうか。

 ある集団の中にいる人がとれる行動として三つをあげられる。忠誠(我慢)と退出と発言(抗議)である。忠誠はその集団のあり方に自分を合わせてみるものだ。適合させてみる。退出はその集団の外に出て行く。発言は集団の中で集団のあり方に抗議することをさす。批判をする。

 小さいのや中くらいの集団であれば、その中のある人が共有地の悲劇におちいっているとして、そこから外に退出することはわりあいにできやすい。しかし、学習性無気力におちいっているとそれができづらい。それで外に退出しないのはその人の自己責任であると見なすのは適したことだとは言えないのがある。その集団の統治のあり方がおかしいと見られる。

 小さいのや中くらいのではなく、大きい集団であれば、その外に退出するのはよけいにできづらい。外に退出しないことを自己責任だと言うことはできないものである。大きい集団の中である人に共有地の悲劇がおきているのであれば、それはよい集団とは言えそうにない。改められるのがのぞましい。

 大きい集団の中で、ある特定の地域に共有地の悲劇がおきているとすれば、それは改められることがいる。放っておいたままにするのは駄目なことだろう。放っておいたままにして、ある特定の地域にたいして、自己責任論を言うのはふさわしいことだとは言えそうにない。負担の必要性がねつ造されているとすれば、それは不要なことなのだから、できるだけ負担を無くす方向で改められることが求められる。