国会の中で民主的で有益な話のやりとりが行なわれているとは見なしづらい

 民主主義の基本はわが国の古来の伝統である。聖徳太子のころよりのものだ。敗戦後に連合国から教えられたものではない。自由民主党の議員はそう言っている。

 いまの日本の政治は、民主主義というよりも独裁制専制主義に近いのではないか。権威主義になっている。そう感じられてならない。

 民主主義はどこでおきたかといえば、古代ギリシャ都市国家(ポリス)ではないだろうか。そこで直接民主主義が行なわれたという。古代のギリシャでは言葉にたいする信頼がとられた。そこから色々な文化や学問が花開いたという。

 自民党の議員は、民主主義の基本はわが国の古来の伝統だという。伝統というのはしばしばねつ造されるものだ。たいていは伝統というのはわりと最近になってつくられたものであることが少なくない。民主主義は、日本が近代になって西洋から輸入したものであるのはたしかだろう。

 民主主義と言うからには、民(の生活)を大事にしないとならない。権力をになう政治家は言葉によって嘘をつかないようにしないとならない。それができているのかといえば、ほとんどできていないのだと見うけられる。少なからぬ民の生活は不安定なのがあり、それが自己責任として片づけられてしまっている。権力をになう政治家は嘘を平気でついている。

 国家の公を重んじて、民の個人の私をないがしろにしてしまうようでは、民主主義とは名ばかりということになる。形だけのものだ。

 首相をはじめとする与党の政治家は、大衆迎合(ポピュリズム)に走ってしまっている。大衆に迎合することで表面においては安定しているようだが、その裏の潜在としてはひどく不安定になっている。

 多数派と少数派が流動に入れ替わるようであればよいが、そうではなく固定してしまい、入れ替わりがおきづらい。多数派と少数派が流動で入れ替わらないと、安定することにはなるが、停滞することにもなる。腐敗がおきやすい。

 小きざみに小出しで不安定さを吐き出すのがのぞましいが、それが行なわれないと、民主主義がうまく働いていないことになる。ちょくちょく不安定さが外に吐き出されれば、あとで大きな不安定をまねかないですむ。しかしいまの日本の与党による政治では、民主主義が実質として失われていて、不安定さがこまめに外に吐き出されていない。あとで大きな安定の崩壊がおきるのが危ぶまれる。

 たとえ認めたくないことであっても、みんなに関わる政治のことがらにおいてはとくに、事実は事実としてそれを認めるのであればよい。そうではないのがいまの与党には見うけられる。民主主義は日本に古くからあった伝統だなどということを与党の議員は言っているが、これをどう信用しろというのだろうか。

 与党の政治家が事実を重んじるのではなく嘘をついてしまうのは、日本はよい国だという叙情主義(センチメンタリズム)に流れてしまっているせいだろう。日本はよい国だという叙情主義によって、でたらめがまかり通ることになる。与党の政治家にはこれをつつしんでもらいたい。叙情主義をとらないようにして、国内の一部の人にしか通じない嘘やねつ造を言うはやめてもらいたいものだ。