恥ずかしながら、として本人が謝りたいとすれば、それがあってもよいとは思うが、外から押しつけるのはどうだろうか

 中東の紛争地で、武装勢力に人質として三年間のあいだ拘束されていた日本人の記者が解放された。そこでこんなことがツイッターのツイートでは言われている。日本に帰ってくるときは、定番の作法を守ってほしいという。記者はまず、恥ずかしながら、と謝りなさい、としている。

 記者は日本に向けて、恥ずかしながら、と謝ることはいるのだろうか。恥ずかしながら、と謝るのがいるとするのは、それがあってもよいのはあるものの、形式主義なのではないだろうか。形式として言ったからといって、実質がこもっているかはわからないのだから、そこまで意味があることではないだろう。

 記者にたいして、恥ずかしながらと謝るのを定番の作法だとして、それをやるのがよいとさせるのは、規範の押しつけになる。この規範は、日本の国内における一部の人(少なからぬ人)はよしとするものかもしれないが、そうだからといってそれが正しいことだとは必ずしも言うことはできそうにない。

 中東で武装勢力に拘束されていた記者は、世界を知っている人だろう。自分の足で世界に出ていって、色々なことを見たり聞いたりしている。その記者が自分で判断することを尊重するのがあってよい。

 形式として、恥ずかしながらと謝る定番の作法を守るような人は、日本の世間の空気を読む人ではあるが、悪く言えば小さくまとまってしまっている。空気を読まないで外に向かってはみ出るような人ではない。

 日本の中の空気を読むのをもっとも優先していたら、世界に出ずに日本の国内にずっととどまっているはずだ。世界に出て活動する記者にそれを求めるのは無理があるのではないか。世界に出て記者として活動するという時点で、日本のあり方や空気を相対化することにならざるをえない。日本のあり方を相対化するのは決して悪いことではない。日本というのは世界の中における一つの部分にすぎないから、それよりも世界のほうが重要だという見かたは成り立つ。