死んだら負けだとしてしまうと、その人を悪玉化することになりかねない

 自殺する子どもを一人でも減らす。そのために、死んだら負けだと言いつづけるつもりだ。お笑い芸人の人はツイッターでそうツイートをしていた。

 このツイートは、悪意によるのではなく、善意からのものであるのはたしかだろう。しかし、有効性という点でいうと、そこには疑問符がつく。

 死んだら負けだというのが真の有効性をもつとすれば、自殺をする子どもの原因が、死んだら負けだと言われなかったから自殺をしたのであることがいる。

 死んだら負けだと言われなかったから子どもが自殺をしてしまうのであれば、死んだら負けだと言うことで自殺を防ぐことにつながるが、現実にはそうだとは見なしづらい。

 事前において、自殺を防ぐ手だてとして、死んだら負けだと言うのはわからないではない。しかし、事後において、自殺をしてしまった子(または大人)に、死んだのは負けだと言うのはおかしいことだ。関わりのある人の傷口に塩を塗ることになりかねない。事後において、死んだのは負けだと言うのは不要だ。

 自殺をする子どもを一人でも減らすという目的をもつのであれば、子どもが自殺をしてしまう原因を探ることがいる。原因を探って行き、それを探り当てることで、適した手を打つことにつながる。

 死んだら負けだと言うことが、子どもの自殺を防ぐのにまったく何の役にも立たないわけではないだろうけど、原因にもとづいた手だとは言えそうにない。せっかくであれば、原因を探って行き、それにもとづいた手を打ったほうが有効性が高い。

 自殺をしたとして、それで死んだら負けだとするのは、性急な一般化をすることになる。それは避けたいところだ。さまざまな個別の例があるから、その一つひとつのちがいをないがしろにしないようにしたい。

 かりに死んだら負けなのだとするにしても、それはいつの時点からの話だろうか。ずっと前から死んだら負けだとなっていたのではないから、そうするのだとすれば、過去にさかのぼって当てはめることになる。

 さかのぼって当てはめるのは、当てはめられるものにとっては、それを知らなかったわけだから、公平なものではないし、つじつまを無理やりに合わせることになる。そのようにつじつまを無理やりに合わせるのではないとすると、死んだら負けだとはとくに言えないのをあらわす。

 人間は社会的動物である。社会の中で生きている。社会の中に生きていたある人が自殺をしたことについて、社会にまったく責任がないとは見なしづらい。ものによっては社会にそうとうな責任や非がある。死んだら負けだとするのは、そのことを隠ぺいすることになる。

 社会に責任や非があるのにもかかわらず、死んだら負けだとしてしまうと、死んだ人を悪玉化することになる。死んだ人を悪玉化するのはふさわしいことだとは言えそうにない。独断と偏見をすることになる。責任や非のすり替えになるものだ。その人をとり巻いていた外の状況や、大きくは社会の欺まんなどの悪いところを隠ぺいせずにおもてに出して見るのがいる。