当為(かくあるべき)の歴史と実在(かくある)の歴史

 学校で歴史を教える。その中で、日本の近代や現代において、戦争のさいにおきた従軍慰安婦などの問題はどう教えるべきなのか。これについては、従軍慰安婦があったと教えるべきか、それともなかったと教えるべきか、もしくは両方を教えるべきかというのがある。

 どう教えるのかということとは別に、学校で学生(子どもたち)に、暗記をさせるかたちで教えないようにするのはどうだろうか。暗記をさせるかたちで教えて覚えさせるという形をとるのではないようにする。

 歴史の学科だけで見るのではなくて、ほかの学科とからませるようにすることができる。たとえば国語の学科とからませることができる。どのように読みとればふさわしい読解になるのかというふうに見て行く。読みとるさいに、なるべく溜(た)めをもつようにする。そのまま受けとるのではなく、できるだけ批判的に受容するようにする。

 たいていの重要なことがらは、答えが一つだけになるのではなくて、二つ以上のものがとられることが少なくない。単数ではなくて複数になるようにすることで、一つの正解幻想におちいるのを避けるようにする。一つの文脈だけではなく、いくつもの文脈が成り立つのであれば、それらに目を配れると受けとれる情報の量が増える。

 暗記させて教えるかたちだと、受け身になるが、そうではなくて、自分たちから能動で発信できるようにしたらどうだろうか。疑問をもてるようにして、それを自分で質問をしたり調べたりして理解を深めて行く。歴史と国語といったように、ほかの学科をからませるようにすれば、そこに相乗効果がはたらくのが見こめる。

 じっさいの学校のあり方では、歴史には歴史の教え方のまずさがあるだろうし、たとえば国語であれば国語の教え方のまずさがあるのだろう。

 理想的な教え方がとられている学校であれば別だろうけど、ふつうはまったく先生の自由な裁量に任されているのではないだろうし、融通のききづらさがあるのが現実にはいなめない。学校は国家のイデオロギー装置だから、純粋に生徒のためになることが行なわれるのはのぞみづらい。