批判ばかりするのはよくないことなのかどうかがある

 批判ばかりしている。それをおかしいとかまずいことだとすることができる。批判ばかりするのははたしていけないことなのだろうか。この質問をとれるとして、それにたいする直接の答えにはならないけど、ある主張にたいして批判は可能である、とする答えが成り立つ。

 ある主張にたいして批判は可能なので、批判をすることになる。ある主張を一つの命題だとできるとすると、それにたいして反命題(アンチテーゼ)をとれる。命題と反命題とで弁証法のあり方が成り立つ。

 批判ばかりするのはいけないことなのかの質問にたいして、直接の答えになるものではないが、ある主張にたいして批判は可能だというふうに答えることができる。可能だというのは、ある主張が完ぺきなものではないのをあらわす。完ぺきな合理性によるのではない。限定された仮説や判断にとどまる。かたよりを含んでいる。

 この例を持ち出したからといって、説得性はとくに高くはないかもしれないが、例えば、日本の国に住んでいて、住みやすいことから、日本はよい国だという主張をする。この主張には批判が可能である。日本の国に住んでいて、住みやすいからといって、日本はよい国だとはかぎらない。別の人には住みやすくないかもしれないのがある。住みやすいとしても、よい国かどうかはまた別だというのがある。

 ある主張にたいして批判が可能なのは、切れ目(すき間)を突くことができることによる。切れ目がないように見えるとしても、改めて見れば連結しているところに切れ目を見いだせる。そこを突く。

 切れ目がないように見えるのは、速度が速いものだが、それにたいして切れ目を見いだしてそこを突くことで、速度を遅くする効果がとれる。批判が的をついていてそれが受け入れられれば、止めることができる。

 批判ばかりしていては、何ごとも決められないから、現実においてはそうするわけには行かない。これは、批判ばかりすることにたいする批判である。批判というのもまた一つの主張であるという見かたは成り立つ。

 ある主張があるとして、その中には切れ目があるものだ。それとは別に、ある主張と現実とのあいだに切れ目がある。現実とまったくぴったりと合っているのではない。媒介していることによる。ぴったりと合うものではないことから、そのあいだに切れ目を見いだすことができて、その切れ目が空いていることにたいして批判を投げかけることができる。

 現実はさまざまなものごとによって複雑にできているが、それを言いあらわすさいに、複雑さを減らすことになるのを避けづらい。単純化することになる。単純化するとわかりやすくなって便利ではあるが、現実の複雑さをとりこぼしてしまっている。その点にたいする注意がおろそかになってしまっているとすれば、そこを批判することができる。

 言われていることにたいして、それを言葉どおりに受けとるのと、そうしないのとの二通りのあり方が成り立つ。言われていることを言葉どおりに受けとることが必然として正しいとは言えそうにない。そうしないほうが正しいことがある。たとえば皮肉で言っていることは、言葉どおりに受けとらないことで適した受けとり方になる。必然として正しいのではないとすると、可能性の水準としては、そのまま受けとるのと受けとらないのとの二つの受けとり方がとれる。

 おもて立って言われる主張は顕在であり、それにたいして対立することになる別の主張が潜在として生み出される。潜在しているものを顕在化させることで、批判を表にあらわすことになる。生成される。その批判にたいしても、潜在としてそれに否定的な主張が生み出されるのはたしかだ。

 批判ばかりするのがよいことかどうかはわからないものではあるが、じっさいに批判を投げかけないにしても、ものごとを批判的に受けとることは有益である。批判的に受容するようにして、そのまま受けとらないようにする。

 批判ばかりするとしても、そこに一貫性があり、日和見で態度がころころと変わってしまわないものであればよい。的を得ていて、根拠がしっかりとしたものであれば、絶対によいものかどうかはわからないのはあるが、少なくともあるていど(以上)は有益なものであると見なせる。

 批判ばかりするのを、見かたを変えてみれば、あえて批判をするというのが成り立つ。確認のためにあえて批判をするのは、試しに批判をしてみるものである。試しにやってみて、やってみたらその批判が当たっていて、それが受け入れられれば、うまいぐあいにもとの主張は正されることになる。これはよいことだ。見直すことにつなげられる。見直す中で、見落としやうっかりしたまちがいが見つかることがある。批判を経ないよりも経たほうが有益にはたらくことは少なくない。

 確証(肯定)だけではなく、反証(否定)があったほうがよい。批判をするのには反証の意味あいがある。確証だけであると、確証の認知のゆがみがはたらく。それを避けるようにできれば有益だ。そのためには、弁証法のあり方をとることができる。一つの命題にたいして、反命題があるのをくみ入れるようにする。文脈どうしがぶつかり合ってしまわないようにして、すり合わせをして調整する。民主的に話し合いをして、相互に了解をとることを試す。