首相の言う責任は、じっさいには責任をとることにはなっていないで、言葉で言うだけになっている

 憲法の改正によって、自衛隊憲法に明記するのを目ざす。いまを生きる政治家の責任だ。首相はそう言っている。責任を言うのであれば、ほかにもっとやらなければならないことがあるはずだが、それはほったらかしにしたままだ。

 首相は、憲法の改正を目ざすうえで、いまを生きる政治家の責任を言っているが、これはじっさいには責任をもっているのではなく、ごう慢になっている。おごりにおちいっている。

 たんにいまを生きている政治家だというだけでは、責任をもつことになるとは言いがたい。責任をもつというのは、いまを生きている政治家であるということをことさらに重んじないようにすることである。いまという時点に重きを置きすぎない。

 いまというのはすぐに過ぎ去るものだ。であるから、いまを重んじるのではなくて、これから先と、これまでの過去を重んじるのがふさわしい。未来の人の意思と、過去の人の意思を重んじる。

 未来の人と過去の人の意思を重んじるには、いまを生きる政治家の意思と同一なものにしないことがあったほうがよい。いまを生きる政治家の意思とはちがう意思をもっていることが、未来の人や過去の人には可能性としてある。ちがう意思をもつ人との対話を行なう。独話や(同質の者どうしの)会話をするのではない。

 未来や過去の人は、いまを生きる政治家とはちがう意思をもっている可能性があるのをくみ入れて、いまを生きる政治家の意思を相対化しないとならない。絶対化しないようにする。それが、いまを生きる政治家がもつことがいる責任だろう。それをもたないのは無責任となる。

 いまを生きる人たちの中にも色々な意見があるのだから、その一つひとつをていねいに見て行かないのもまた、いまを生きる政治家に責任が欠けているのをあらわす。責任をもつというのは、実行するということにそのまま結びつくものではないから、急進にものを進めるのを避けられればよい。急進にはものを進めないで、色々な呼びかけがあるのにたいして、時間をかけて受け答えをして行くことがいる。応答責任(responsibilty)や説明責任(accountability)を果たしてもらいたいものだ。