近代に入ってから生み出されたものが、ぜんぶ虚偽意識だというのはやや極端である(すべての集合の中にはよいものは多少はあるだろう)

 近代につくられたものは、虚偽意識(イデオロギー)にすぎない。虚偽意識にすぎないものだから、これから先の数十年でまた変わってくることがある。人間の少数者の権利がよいとしているとしても、それは近代につくられた虚偽意識だとすると、数十年も経てばまた変わってきたりすたれたりすることがなくはない。

 前近代と近代を分けたとして、近代に入ってからできたものがすべて虚偽意識だということになると、そのすべてを同じように軽んじて見ないとならないことになる。否定で見ることになる。そうしないと公平な見かたになるとは言えそうにない。虚偽意識だとしておきながら、あるものは肯定で見て、別のものは否定で見るというのでは、都合よく使い分けてしまうことになる。

 近代に入ってからのものを含めて、人間のなしたことは、仮説であると見なすことができる。その仮説は虚偽意識だということはできるが、有力な仮説として定説に近くなっているものが中にはある。信ぴょう性や妥当性が高い説と低い説があるから、その中で高い説についてはほぼ普遍に近いと言ってもそこまでまちがいではないだろう。暫定的なものではあるかもしれないが。

 歴史の流れがあり、それを通時で見れば、人類がこれまでにさんざん愚かな行為をくり返してきて、多くの血が流され、それを省みることによって得られたものがある。愚かな行為の理性による反省から、国が武力を行使するのが基本としては禁じられるようになった。戦争は基本としては違法となった。建て前としてのものにすぎないが、許可や合法としていたときよりはわずかにではあってもよくなったのではないか。

 たいして有効ではなく、いざとなったら元のもくあみになりかねないが、一国で単独で動くよりも、多国がまとまってものごとをいっしょに決めるほうがのぞましいというのが大すじではよしとされているのがある。これが大すじでよしとされているのは、しょせんは文化的なものにすぎず、物理の力が振るわれたり、一国(大国)が勝手な行動をしはじめたりしたら、止めるのは難しいだろうけど、それとは別に、文化的に大すじでよしとされているものが内容としてまちがっていることにはならない。

 文化よりも物理の武力などのほうが強いのはある。しかし、文化の力もそこまで弱いものではない。文化として武力の行使を禁じる原則や、戦争を違法とする規則があるが、これらの決まりは建て前にすぎないものではあるにしろ、発見された法である。いまのところじっさいにはそこまで有効ではないとしても、この法が発見されたことによって、それがまったくないよりかはずっとよい。根拠としては使える。

 シオドア・スタージョンの法則を持ち出してみると、近代に入ってからさまざまなものが生み出されたとして、その九割くらいは大したことがないものかもしれない。しかし一割くらいはすぐれたものがあるだろう。一割よりももうちょっと少ないかもしれないが、その一割のものは、創造的なものであり、前と後とで区切りをもたらす。まったく前に戻ってしまうのではない。そういう達成が生み出されたのはわずかにはあるだろう。

 虚偽意識(イデオロギー)というよりは、虚無主義(ニヒリズム)の見かたができるのはある。虚無主義になり、さまざまな文脈が乱立して争い合うようになると、血みどろの争いになりかねないから危ない。それは避けられればのぞましい。それぞれの文脈を絶対的に基礎づけられないのはある。それぞれの文脈のあいだで調整ができれば、激しいぶつかり合いは避けられる見こみがある。

 文脈どうしの争い合いでは、調整が行なわれるようにして、双方向のやりとりが行なわれるようにできれば血みどろの争いになりづらい。近代に入ってからできたものだからといって、それをただちに虚偽意識だとして退けないようにして、中には(一割くらいは)よいものもあるというふうにする。虚偽意識だとしてすぐに退けてしまうのは偏見だが、そうならないようにする。それなりに的を得たものであれば、承認することができる見こみがある。頭から退けてしまわないものだ。自己の了解にとどまるのではなく、双方向のやりとりから相互の了解につなげたいものである。