日本の国はよいか、それとも悪いかで、よいと言うのではなく悪いと言うことは悪いのかがある

 日本はよい国か。中立や客観としてそうであるとは言いがたい。

 国がかかえる大きな問題がある。中くらいのや小さいのもある。それらは、ある人にとっては大きなものに感じられる。中くらいや小さいものに感じられる。そうではなく、まったく何の問題も感じない人もいる。人によってそのちがいがある。

 それぞれの人が大事にしているものがある。とくに価値を見いだしているものがある。それはそれぞれの人による遠近法だ。ある人の遠近法からすると、日本という国のよくないところやおかしさが深刻なものであり無視できないものであることがある。切実なものだ。

 ある人の遠近法だけがすべてではなく、ほかの色々なものがあるから、一つだけによって決めつけるのはよいことではない。まったく偏りがないということはできないものだが、国がかかえる正(プラス)のものばかりを見るのではなく、負(マイナス)のものを見るのは役に立つ。負のものを見るのは、国(時の政権)がやることの足を引っぱるようなところはあるが、それをするのが有益なのはある。

 国がかかえるプラスのものは、改めて見たさいに、本当にプラスのものなのかどうかがいぶかしいのはある。じつは改めてよく見たらプラスでも何でもないということはあるだろう。たんに雰囲気だけだったという。

 マイナスのものを見のがしてしまうのはよいことだとは言えそうにない。マイナスのものを見つけることが、それを改めることの第一歩として欠かすことができない。見つけなければ、改めることに手をつけることはできないから、まず見つけることが大切だ。

 マイナスのものを見つけるのは、みんなが等しくやるものではなく、人によって差があるものだろう。心理としては、自分が赤い色が気になる人は赤いものばかりが目につきやすいし、黒い色が気になる人は黒いものばかりが目につきやすい。その心理の差があるので、あることのマイナスのものが目につきやすい人がいる。それは行きがかりとして偶然(たまたま)によるのも含む。

 日本という国がよくないことになっているというふうに言うのは、マイナスのものを見つけているのによることがある。たんに日本の国をおとしめようとしているわけではない。日本の国の内部にある危険があるとして、その危険の信号をたまたま受信する人がおき、それを外に向けてあらわす。それが活かされるよりも活かされないことのほうが多いだろうけど、活かされないのはもったいないことだ。耳に快くないことであっても、的を得たものであれば、すくい上げるようにして、活かされたほうがよい。

 極端な話でいえば、かりに日本が天国のように非の打ちどころのないすばらしい国であったとしても、それでも人によってはよくないと言える。逆によくないのだと言える。天国のように非の打ちどころがなくすばらしいのは、非がないという点で非がある。矛盾はしているものだが。天国のように非の打ちどころがなくすばらしいのが日本であるとしても、それは中立や客観とは言えそうにない。主観のものだろう。そういうのが嫌いだという人も中には出てくるのがある。