性の記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)を見られる

 性について、社会の中で話すのはよいことではない。社会や政治において性をとり上げないほうがよい。評論家はテレビ番組の中でそう言っていた。

 性について社会や政治でとり上げないほうがよいのかというと、そうとは言えそうにない。

 性については、個人のそれぞれが自分の生活の中でとり組めばよいことであり、個人の自由に任されているのはある。しかし、性についてを見て行くさいに、それを個人のものとして当てはめて終わりにすることはできそうにない。個人のことがらであるとともに、社会のことがらでもある。二つの見かたがとれる。

 性のことをとり上げるときに、それを一つの大きな論点であるとできるとすると、その大きな論点の中に、さまざまな中くらいのや小さな論点を含む。中くらいのや小さい論点に細かく分けて細分化したほうが、ものごとをよりよく理解することにつなげられる。

 性とひと口に言っても、身体の性と文化の性に分けられる。この二つに分けられるのがあり、それぞれについてを見て行くようにしたほうが、限定して見ることになるので、有益になるのが見こめる。

 性の行為が行なわれるのを大っぴらに見せるのであれば必ずしものぞましいことではないが、そうではなく、たんに(重要な)主題の一つとしてとり上げるだけなのであれば、それは行なわれるのがのぞましいことだろう。

 広くいえば、人間のあらゆる行ないは性に関わっているくらいである。フロイト精神分析学でそれは言われている。性の欲動が昇華されることで文化が営まれる。たとえ高尚なことであっても、じっさいには卑俗なものに支えられていることはまれではない。性と性でないものがあるのではなく、すべてを性の一元論のようにして見ることもできる。ある対象に性の欲求(エロス)をもつことは行なわれている。