何によってかはともかくとして、明るい未来がやって来るのであれば、明るい未来がやって来ると思うべきかもしれないが、その確証はあるとは言いがたい

 人工知能の機械が発展すれば明るい未来が来ると思わないと駄目だ。テレビ番組の中で大企業の社長はそう言う。それにたいして、ほかの出演者は、強者(勝者)の弁だと反論をしていた。

 大企業の社長はテレビ番組の中で、人工知能の機械が発展すれば明るい未来が来ると思わないとだめだと言うが、本当にそうだろうか。そう疑問を発することができるだろう。

 大企業の社長の見かたは、一つには楽観論になっているものだというのがある。それとは逆の悲観論も成り立つ。楽観論をとらないと駄目だということは必ずしも言えそうにない。ものごとにはたいていは二つくらいの見かたがとれる。

 大企業の社長は楽観論をとっているが、それはその反対である悲観論と関係しているのであり、その二つのあいだに解消しがたい矛盾があるのが現実ではないだろうか。

 無理をしてまでも、明るい未来がやってくると思わないと駄目なのか。そうすることによってかえって悲壮なふうになってしまいかねない。

 一人でも多くの人が生きていきやすく、幸福になれる。自由の幅が広がって行く。そうなることをうながことの役に立つのであれば、科学技術の発展は喜ばしい。そうではないのであれば、いったい何のための発展なのかということになる。

 人工知能の機械が発展することによって、明るい未来がやって来るのであれば、それに越したことはない。そう思うにせよ思わないにせよ、そうなるのであれば、どちらでも同じことだという見かたも成り立つ。

 未来を見るのとはちがい、逆に過去を見ることがあるとよい。過去にはさまざまな負の痕跡が残されている。過去におけるさまざまな負の痕跡が眠っていて、それらに光を当てることができればよい。眠りから覚まされるのを静かに待っている。それらに光を当てられるようにして、忘却して風化により忘れ去ってしまわないようにする。想起して行く。それによって、ただ未来を見るのではないものが見えてくるのがのぞめる。